アトランタ最終日。
○まず朝はキング牧師の記念館を訪問。ここアトランタの黒人コミュニティはキング牧師が牧師としての仕事をしていた故郷とのこと。キング牧師は高校の英語の授業で「I have a dream」スピーチを聞いたり読んだりして以来だが、改めてその当時の黒人の置かれた状況の悲惨さや彼の業績を知り驚かされた。なんというか、今自分が住んでいる(平和な)アメリカは、当時の公民権運動であったり人種間対立であったり、そういうものを乗り越えた結果であり、最初から今のような状態であったわけではまったくないことを痛感させられた。LA暴動についてもちょっと勉強してみないとなと痛感。
また、白人の側にも学生などを中心に黒人の公民権運動に協力する人が少なからずいたことや、また別の白人がKKKやその他いろいろな形で公民権運動を暴力的・政治的・その他色々な形で妨害していたことやその妨害の激しさなど、より詳細な事実を学んだことで問題の重さのようなものがぐっと胃に落ちてきた。「既得権の側にいる人間がその既得権を脅かされそうになるときどれだけ非人間的になることができるのか」ということは、人種問題を超えてよく理解しておくべきだと改めて実感(自分も将来、何らかの形で既得権者となり、善であると固く信じて白人が黒人にしたようなひどいことをしてしまうこともありうるわけで。言う人によっては、企業の正社員という立場が現代日本における最大の既得権層であるという意見もあるわけだし)。
・ひとつなんとなく不思議に思ったのは、キング牧師はあれだけ多くの黒人たちをどのように統率できたのだろうかということ。黒人といっても貧富・教育など色々な点で黒人内に差があっただろうし、いまの政治ではないが「総論賛成、各論反対」みたいなことが起きていなかったことはないのではないだろうか。例えば、彼の掲げた非暴力非服従をベースとした抵抗というのはかなりラディカルであり、例えば白人に家族を殺された黒人にしてみればそう易々と受け入れられるものではなかったのではないか等々思う。あるいは、黒人の中にも既存の差別構造の中でちょっとした既得権のようなものを享受していた人がいるかもしれないわけで、そういう人達をどのように運動に巻き込んだのか気になる。公民権獲得という大義のために、考え方が微妙に異なる色々な黒人のグループが小異を捨てて団結したのか、あるいはキング牧師が何らかの手段によって黒人をひとつにまとめあげたのか、あるいはそもそも黒人がひとつにまとまっていたわけではなくキング牧師の支持者というグループが一つあっただけということなのか...
ということを思ったのは、自分の個人的な問題意識として「考え方の異なる人々の集団を、ひとつの考え方を強制するというやり方以外の方法でうまくまとめ上げ、ひとつの大きな結果を達成するためにはどうすればいいのだろうか」というものがあり、キング牧師はその問題を解決したのではないかと思われたのだ。小異を捨ててもらうことだってそれほど簡単なことではないと思うし、増してやリーダーの考え方を押し付けるやり方はムラ社会ならさておき今後チームがグローバルになっていくにつれてどんどん難しくなっていくだろうし。現時点の個人的仮説としては、「メンバーの皆が納得できて、自発的に小異を捨ててくれるような強い目標を思いつき、掲げること」くらいしか解決方法が思い浮かばないのだが、何かキング牧師から学べることがあるのであれば勉強してみようと思った次第。
・キング牧師の足跡を追っていて、いわゆる南部の州の地名がぽこぽこ出てくるのを見て、いくらなんでももう少しアメリカの地理を知っておきたいと痛感。夏休みの宿題がひとつ追加された。
○その後はStone Mountainという自然公園をちょっと見たりしておしまい。レンタカーを返して、LAに戻って。
・ある意味においてはアトランタはLAと変わらなかった。地方都市といった感じの地理的位置、ダウンタウンの雰囲気、等々。他方、ある意味においてはアトランタとLAは大きく違った。ひとつは歴史感。ダウンタウンの建物はそんなに古くなさそうだが、郊外の豪邸とか、あるいは地名にもLAのような「とりあえず有名な固有名詞を借りてきました」感がないというかオリジナル感があったし。他には人々の態度。アジア人の少なさや、外国人に対する対応、子連れの人に対する対応というあたりで細かい差が細々とあり、全体としてLAの方がはるかに住みよい印象を与えた。白人と黒人が全然交流しておらず別々につるんでいたのもかなり気になったし。まあこれは以前も書いたが、LAが良いアトランタが悪いという問題ではないのだが。。いずれにせよ、LAひとつでアメリカを知ったように語ってはいけないということを身を以て感じることができたように思っている。なんだかほんと、年を取って経験を重ねれば重ねるほど、全ては相対的かつ動的であり、物事に対して断定的なことを言うことなどできやしないということだけがわかってきているようで、実に生きづらい。。