Wednesday, June 6, 2012
旅の終わり
そんなわけで、多少、感傷的な気分になっている。ここで出会った友人たちにももうなかなか会うことがあるまい。ここで得たもの-知識のみならず、必死にブログに書き残した些細な感情も-も早晩忘れてしまうのだろう。そして、2年間仕事をさぼったツケや、親や友人と離れた距離は消えないかもしれない。こういったコストに見合うだけの収穫を、果たして自分は本当に獲得することができたのだろうか。。
いずれにせよ、この2年間ももうすぐ終わる。次はすぐそこまで来ている。
Saturday, June 2, 2012
知識と知性
◎知識とは、知性とは
・知識とは情報量、知性とは知っている情報の応用力・知らない情報の理解力といったもの。料理対決で、「あっちが庭で取れた野菜しかないのに、こっちは世界中から調達した肉魚珍味を使って勝つ」ってのが知識で、「あっちと同じ野菜だけしか使わないのに、敵よりはるかに優れた料理を作って勝つ」ってのが知性って感じかしら。
・自分の思いつく範囲での具体例は、以下のような態度と知性に連関があると思う:
①少数の具体例・経験談を、ひとりよがりに抽象化しない(「俺がこないだ会ったXさんは優秀なのに就活不調だった。なので、最近の企業の人事部は目が腐ってると思う」)。その人が特例である可能性へのまなざし。
②世の中に絶対的な正解は存在しないという相対主義的態度、ものごとを断言することへの自己抑制
③必ずしも自分の意見が正しいとは限らないと思える謙虚さ。自信をもつことも大事だが、100%正しいと疑ってやまないのと、1%でも修正余地を残しつつ話をするのではだいぶ違う
④相手の発言を正確かつ迅速に理解する能力。1言えば10わかってくれるという類の人で、喋らせて頭が悪そうという人は見たことがない気がする。
◎どっちが大事なのか
・知識と知性のバランスが大事。知識のひけらかしはとても頭が悪く見える。他方、ある程度の知識がないと知性があるかどうかも判別しにくい。
・自分にとって特に問題になるのは、知識偏重のリスク。それなりに年もとってきて、MBAも持っているので、人にひけらかせそうな知識が増えてしまっており、知識を使うことで(=知性をあまり使わず)話を安易に組み立ててしまうリスクがむしろ高まっている懸念におそわれている。
・しかし、こういうのを気にすべきなのは日常あるいは個人レベルであり、人から預かったお金を最大限守る(増やす)ビジネスにおいては、知識でも知性でも使えるものはフル活用するのが必要な態度だと思っている
・あと、知識か知性化という枠組みの外にも、大事なものはたくさんある。誠意、共感、愛情、信頼、勇気等々。知性があれば何でもオッケーという含意はまったくない。
◎ MBAと知性
・少なくともアメリカのMBAでは、知識そのものよりも、知識をどのように使うかという応用部分に相当程度の重点がおかれている。そのスタンス自体は自分は好きだ。
・でも、ちょっと思うのは、(少なくとも当校の)応用力重視スタイルという授業、少なからず「知識の使い方を練習させることで、情報の取扱方を『知識』として叩き込む」と言う性格を帯びていて、「知性を鍛えることで応用力を芯から鍛える」ってのとはまたちょっと違うのかなと感じている。
・正直、一部のMBA有名人の発言を見ていると、知性を感じる人と知性を感じない人に結構分かれていて、知性の有無を決めるのはむしろMBA以前の日本での教育やキャリア初期なのかなという感触をもっている。
・まあそもそも、外国語たる英語で知識を得るのも難しいのに、知性まで獲得できるかというと、かなり怪しいところはある。授業や経験を様々な形で消化する作業でもしない限り、知識は得られても知性レベルに昇華させることは困難だと思う。
・他方確実に言えることは、知識量は確実に激増したことだ。なので、上述の通り、自分のロジックが知識偏重・知性軽視のスタイルに傾くリスクがある。相手が知らなそうなことをひけらかすことで何となくすごい雰囲気だけ醸し出すと言うスタイル。これは、いいか悪いかというかむしろ自分の美学として、出来る限り回避したいと思っているのだがMBAを取ったことでついついやってしまいそうという懸念。
※繰り返すが、知識/知性という枠組みを離れたところで、留学により得られるものはたくさんある。友情、国際感覚、等々。ただ、教育スタイルや自分自身の語学力を踏まえると、知性獲得はやや難しく知識習得に偏重するリスクは小さくないと思う
◎日本の教育に対する仮説
・自分は日本の高校や大学の教育は、知性を鍛えるという点において実はけっこう優れているのではないかという仮説を持っている。
・根拠は、「正規分布が何かはどうでもいいから、とりあえずこれがどう使えるか見てみましょう」的アメリカ教育と「正規分布が何か、今日は一日じっくり考えてみましょう」という日本教育の両方を経験したこと。もちろんビジネス・実用性と言う意味で前者のアメリカ的教育が効率的なのはわかるが、知性の鍛練という意味では、もしかすると後者の日本式教育の方がよくね?と感じている。
・なので、仮に自分が大学合格当初の自分にアドバイスできるとしたら、「経済学でもなんでもいいけど、知識はある意味どうでもいいっちゅうか仕事とかMBAとかでカバーできるので、しっかりした本や講義に触れて頭をいじめまくって地力を高めろ」みたいなことを言いたいなと思う
Thursday, May 31, 2012
Wednesday, May 30, 2012
MBAって...(2)
Q. MBA取るとその人のパフォーマンスは上がるのか?
A. たぶんそれに関する研究はまだないと思うが、自分の意見は「その質問自体がナンセンス」というもの。同じ会社に戻って比較的似た仕事をする自分が言うのもなんだけど、これは日本で「この仕事、高卒の従業員を大学に送ったらパフォーマンスが改善するだろうか?」なんて疑問はあまり論点にならないのと同じような話だと思う。日本で高卒と学卒がそもそも違うことをやるのと同様に、MBAの本家アメリカでは学卒とMBAは違うことをやるのだ。なので、「同じことを学卒とMBAがやったら?」という問いはそもそものところでちょっとクエスチョンマークがつく、、、というのが自分の意見。
その人の実力が向上するという側面ももちろんあるとは思うけど、それ以上に重要なのは、MBAにより環境が変わるということ。商業銀行の支店業務をやっていたA君がMBAのおかげで投資銀行のトレーディングデスクに座れるようになる、小売店の副店長だったBさんがMBAによりグローバル消費財メーカーのマーケターになれる。そういう環境変化の結果、A君やBさんの生み出す価値は増大するのだ。銀行支店の仕事において生み出す利益が数倍になるとか、小売店の売り上げを倍増させるとか、そういう増え方もあるかもしれないがそれは本質的なものではない。
で、アメリカでは学卒とMBAの間に慣習的壁が存在するので環境を変えるためにMBAが半ば必須なのだが、日本ではそこに壁はあまり存在しないところに「日本人にとってのMBAの価値」という話のややこしさがあると思う。日本人でも、結果的に、MBAをきっかけとして転職したり起業したりすることで環境を変えている人は少なくない。でも、アメリカと違って、MBAじゃないと変えられない環境変化ではないことが多い。
Q. MBAホルダー個人にとって、MBAの価値は何?
A. 人それぞれというのが最大公約数的な答えだと思う。「MBAを取らないといけない世界」を見つけたのでそこに行くための切符としてMBAを取る人もいるだろう。あるいは、自分のように、とにかく知的充実あるいは成長機会を求めて...という人もいるだろう。他にも、人脈、特定のスキル、国際経験、欧米大学院で学ぶ経験等、何を求めるかは完全に人それぞれ。
あとは、価値の定義にもよる。価値を「給与」とか「待遇」と定義した場合、案外多くの人MBAホルダーに「価値」があまり改善しないという事態が起きるのではないかと推察される。特に日本企業からの社費留学で来た人だったら、待遇がMBAにより改善することはかなり考えづらい。なので、もしあなたにとって価値=勤務先での待遇ということであれば、MBAは必ずしも良い選択肢にはならないかもしれない。
※もちろん、会社の金で行く以上、「戻ったら投資してもらった分あるいはそれ以上に会社の利益に寄与してやるぜ」的心意気はあった方が良いとは思うし、自分は一応そう思っている
Q. では、おまえ自身にとっての価値は?
A. 自分の場合は、「投資家たる勤務先の利益に直結するような方向での成長→うーん...maybe」、「自分個人の人間としての成長→Definitely」といったイメージ。この2年間留学せずに職場で揉まれている同期と比較して自分が同等あるいはそれ以上のパフォーマンスを発揮できるかというと、そりゃまあ知識面では自信あるけど実務レベルに落とせるかと言われるとやや心もとないというか結構不安というのが正直なところ。勿論全力を尽くすのは間違いないけど、自信あるかと聞かれたら「すいません、ありません」というしかない。
他方、自分がこの2年間留学したことでより良い人生を送れるようになったかと考えるとそれは間違いなくそうだ。性格だってだいぶ変わったと思うし、好奇心のアンテナも広がったし、友人も増えたし。勿論知識も増えたし英語も使えるようになった。場合によっては転職あるいは起業の可能性も高まったかもしれないし。
このような「投資家たる派遣元にとってのリターンと、MBAホルダー個人にとってのリターンのねじれ」はある種の十字架として自分が背負っていくものなのだろうなと思っている。まあいずれにせよ、仕事時間中は最大限頑張るしかなくて、その結果自分がハイパフォーマーになるのか、凡人で終わるのかは今の時点ではわからない。自分にできることは最善をつくすことだけ、かなぁ。。
(まとめ、というか主に言いたかったこと)
・MBAとか修士とかの就職について日米で違うのは、学卒と院卒の間に壁があるかどうか。USでは壁があってMBAが優遇されているが、日本では壁がないのでMBAが優遇されづらい。MBAの人は、USでは慣習的障壁によって自分達が優遇されていることにもっと自覚的であるべき。優秀だから厚遇を受けているというよりは、慣習のおかげでレントをもらえているだけと考えた方が良い
・USでMBAが高級を食んでいるのは優秀だからではなく需要超過だから。MBAの人が「米国ではMBAが厚遇されるのに日本ではされないのはおかしい」というのは国ごとのMBA周辺の労働市場の需給を理解していない無理解の露呈にすぎない
・日本の、学卒と院卒で壁を作っていない慣習は個人的には好きだが、学卒と院卒をガチンコ勝負させるだけではなくさせたあとの厚遇・冷遇にメリハリをつければ、「優秀者()」がもっと門をたたいてくれるのではないか
(でも、実務上パフォーマンスを測定したり差をつけるのが難しいなら、入り口で優遇するのも次善策としていいかも。。好きじゃないけど)
・MBAの主要な価値は、「同じことをよりうまくできるようになること」というよりも「全く違うことができるようになるチャンスが得られること」。一兵卒として鉄砲の使い方がうまくなるというよりは、一兵卒から将校になることでより戦局に大きな貢献ができるようになる、ということ。なので、同じ仕事をさせても、たぶんそんなに差は出ない(多少は出るとは思うが)
・そんなこんな考えると、今の日本で金銭的価値だけでMBAを選ぶということにはなかなかなりづらい。が、個人単位ではMBAというのは間違いなく素晴らしい経験であり人を成長させてくれる(会社でのパフォーマンスを上げるとは言う自信ないけど..)ので、金の工面がつくならどんどん目指すと良い、というポジショントークでした。
MBAって...(1)
Q. MBAに価値あるの?
A. 誰にとっての価値かによる。採用者(企業)にとっては「あるけど、メリットは殆どMBAへの給料に消えるので、結局ない」というのが自分の仮説。MBA取得者本人にとっては、「形は人それぞれだけど、いろいろある」と言う感じ。
Q. なぜ欧米企業はMBAを好んで雇うのか?
A. MBAの方が学卒より優れているから...というよりも、「欧米では、そういう慣習だから」に過ぎないと思う。日本で、高卒と学部卒の間に大きな待遇差があるのと同じような話だと思う。
Q. MBAを雇うと企業のパフォーマンスは良くなるのか?
A1. これに関する具体的な研究は見たことがないが、「傾いた会社のCEOの大半がMBAだった」といったようなHBSの読み物は読んだことがある。
A2. ひとつ使えるかもしれないフレームワークは、Berk他(2004)のアセットマネジメント業界におけるモデル(下記)。
業界では投資資金は余っているがスキルのあるポートフォリオマネージャーは相対的に不足しているので、すべての超過利益(レント)はポートフォリオマネージャーに流出してしまうというもの。
→このアナロジーをMBAと企業にも使えるように思う。
すなわち、欧米ではポジション数の割にMBAがまだまだ不足しており(金融コンサルが高報酬で独占してしまっているのが一因)、仮に企業が良い業績を上げてもそのレントはMBAに帰属してしまいがち。すなわち、契約時点からの高報酬や高額ボーナスや高額での引き抜きを通じ、企業の高いパフォーマンスはすべて希少資源であるMBAに帰属してしまっているのではないだろうか。超ざっくり言うと、MBAはまだまだ売り手市場なのだと思う。本当にMBAが売り手市場でなくなったときには、いよいよ、「MBAって本当に学卒よりパフォーマンスいいの?待遇一緒でよくないか?」という議論が起こるときだと思う。そういった議論が起こって実際にMBAがレントを得られなくなるその時までは、MBAはまだまだ希少資源なのだと思う。
逆に、日本では、希少なのは大企業のポジションでありMBAではない(と思う)。なので、MBA学生が高報酬を簡単に得られたり、引き抜かれまくったりということはあまり生じていない。
なので、別にアメリカでも、MBAは価値があるから高給をもらっているわけではなく、単に相対的に希少だから高給を貰っているだけのことなのだと思う。価格は商品の品質というよりは需要と供給のバランスで決まる、ということだと思うので、「欧米ではMBAは厚遇されてる」→「なのでMBAは価値あるはずだ」→「なのに厚遇しない日本企業はおかしい」という理屈はナンセンスだと思う。
万一なにかの弾みでUSにおいて学卒とMBAの間の慣習的障壁がなくなってしまったら(MBA必須という求人が減ったら)、おそらく、どれだけMBAが優秀だったとしても給与格差はみるみる縮小すると思う。
Q. 日本企業がMBAを採用しないのはなぜか?オワコンなのか?
A. MBAが求めるような優遇をしてやれないから、ということではないかと思う。
日本では、学卒は高卒より優遇される慣習があるが、院卒は学卒に対して全然優遇されない。せいぜい初任給が数万円高い程度。なので、多くの日本企業では学卒と院卒はほぼ対等な状態でスタートすることになり、優秀な学卒が出世する一方そうでない院卒が出世しないなんてことが普通に起きる。
でも、欧米では、院卒は学卒に対して優遇されるケースが多い。MBAじゃないと幹部候補(日本で言うところの総合職)になれず学卒ではスタッフ止まりという会社が多いようだ。なので、欧米のMBAに行った日本人も、そういう「MBAが学卒と比べて優遇される会社」というのを知るので、同程度の経験を積んだ非MBA社員とガチンコ勝負させる日本企業はある種アンフェアあるいは「割に合わない」と考えるのではないか。
なので、この「MBAを優遇せず、非MBAとガチンコ競争させる」のがいけてないなら日本企業はオワコンだし、悪くないなら日本企業は悪くないのだと思う。個人的意見としては、
①仮にMBAが優れているのなら、ガチンコ競争のなかで結果出せるはずでしょ、優遇求める必要はなく、ガチンコ競争させる日本のシステムは悪いものではない
②日本企業の問題(=なぜ優秀な人が外資に流れるか)は、競争の勝者に対する報酬がないこと。それが高い報酬なのか早い出世なのかは企業によっていいと思うが、もっと同僚間の差をつけてもいいのではないか
という感じ。少なくとも自分は、仮に日系企業が②のような「うまくやったなら優遇するよ」と言ってくれるのであれば、スタート地点で優遇されていなくても就職したいと思う。
そう思っているので、MBAホルダーの人が「MBAホルダーを雇わない日本企業は終わってる」というのは「俺を優遇しろ」という意味なので、ちょっと格好悪いような気がしていて自分としてはあまり言いたくない。でも、別に採用時点で優遇はしなくてもいいので、その後場合によっては厚遇してくれるという夢物語くらいは提供してくれないと、MBAは日本企業よりも手近な外資系企業を選んでしまっても仕方ないと思う。
続く...
Thursday, May 17, 2012
洗脳の結果
(留学のおかげなのか、もともと自分の中にあった傾向が留学により顕在化先鋭化しただけなのかもしれないけど)
1. 関心のウエイトが、社会から個人へ
日本経済とか、社会とか、そういったものについて床屋談義するのが留学前はわりと好きであった。
しかし、特にCockrumという爺さんのアントレファイナンスで「規制とかマクロ環境とかに文句言うのは対応できてないことを示すだけ。虚心に状況を理解し、対応する。それが経営者としてお前がすべきことの全てだ。外部環境には逆らうな」という話を繰り返し言われた結果、だいぶ考え方がそっち方向に変わった気がする。
日本経済について案ずる暇があれば、ただひたすらに自分やその周辺のミクロなことについて考えていたい、そう思うようになっている。
※ あと、「そもそも日本って何よ、日本人が創設したメーカーの利益と日本国民の利益とか利益相反してね?」といった感じで、ナイーブに日本を論じたりすることの危険性のようなものも気にかかるようになってきている。なので尚更、日本とか社会について無定義に議論することをためらってしまう。
※ ただし、だからといって外部環境について無知であったり無関心であって良いということではない。外部環境を理解しようという態度は間違いなく必要である
2. ネガ/ポジ
どんなものにもポジティブな側面とネガティブな側面がある。そこで、いちいちポジティブな側面を見てやるのと、いちいちネガティブな側面を掘り起こすのでは、掘り起こす自分のメンタリティも指摘される相手のメンタリティもずいぶん変わってくる。
特にコミュニケーションの授業等で「まずはポジティブな側面を拾ってみよう」という指導を受けたこともあるのだが、最近では、「特に必要なければ、ポジティブな側面を掘り起こしておけばよくね?」という考え方になりつつある。
ネガティブな指摘って、①自分の憂さ晴らし ②相手に対する指導・示唆をどうしてもしなければならない ってときくらいしか必要な気がしている。つまり、親友・家族・信頼する上司部下等以外に対してネガティブな苦言を呈する必要は全くないと思う。憂さ晴らしは他の手段でやったほうが多分いいと思う。
ということで、指導すべき後輩とか、自分の娘とか以外には、教育的指導の必要もないので極力ポジティブな側面だけ見てやるようにしたいと思っている。別に相手のためじゃなくて、そうすることで自分のストレスが減らせるので。あくまで自分本位。
3. 忖度のオンとオフ
日本では、よく「相手の立場に立って考えろ」という発想でものを考えていた。
それはそれで素晴らしい発想だと思うしこれを捨てる気はないのだが、アメリカ的な「相手のことを気に掛けるのは場合によっては失礼であり、ただシンプルに自分の立場からものを言う」という発想も同じくらい価値があるのではないかと思うようになっている。
これを頼むと相手が困惑するんじゃないだろうか...とか、こういう言い方すると相手が嫌がるかな...とか。
最近思うのは、あえてそういう「相手の心中を忖度する」ことをやめてみて、100%自分の立場から自分の望むことだけを言いっぱなしてしまう方が良いときというのもあるのではないだろうかということ。
てか、相手だって立派な大人なんだから、嫌なことを言われたら嫌って言えるし、やりたくないことを頼まれたら拒否できるはずなのだ。下手に遠慮して頼むべきことを頼まず後悔するくらいなら、とりあえず頼んでみたほうが両者にとってハッピーなこともありうる。遠慮して最善を目指さないよりは、あえて遠慮をしないで最善を追及する方がいいときだってあるのではないだろうか。
あるいは、ケンカのとき。これはFxxxなクラスメートとの喧嘩・摩擦等を通じて学んだものだが、"Why can't you do that?"とYouの文で批判するのではなく、"I am disappointed."とIを使って話す方がよいような感触をもっている。「お前はどうして...」という言い方で言ってしまうと、どうしても余計なお世話感が出てしまい、相手に不必要な不快感を与えてしまう。ここはシンプルに「俺は不快だ」と自分がどう思ったかだけ主張する方が、場合によっては思いがストレートに伝わる(気がしている)。
いまだ答えは出ていないのだが、正解は「いつも忖度する」というよりは「必要に応じて忖度のオンとオフを使い分ける」と言う感じなのではないかと思うようになっている。
4. とにかく口より手を動かす
不平不満は、状況を変えられない無力性や状況に対応できていない硬直性の裏返し。不平不満を言う暇があれば社会を変えるなり状況に対応するなりするべきだと思っている。
例:会社の給料が悪いと居酒屋で文句言うのではなく、「会社の給料が悪いので、いいところに転職しました」と言えるようにする
あるいは、具体的なアクションの伴っていない願望はただの妄想であり、ヨタ話以上の価値をもたないという思いが強くなっている。少なくとも自分がなにか願望を述べるときは、
・それが達成困難なもので、「できればいいなあ(でも無理)」という仮定法で述べていることを意識する
・達成可能性があるなら、願望と、その達成のために既に着手しているアクションをセットで述べる
のいずれかの踏み込みが必要なのかなと思うようになっている。
もちろん不平不満だって願望だって否定されるものではない。人間なのである程度言わないとストレスもたまる。
ヨタ話としての不平不満はまったく否定しない。
ただ、言いっぱなしの格好悪さというものが、留学してからつと気持ち悪くなってきているところ。。
Wednesday, May 16, 2012
趣味
最近、自分の学校の合格者と学生のやり取りや、他人のブログなどで、「MBAに合格した!出国まで時間があるのだが、何をすればよいだろうか?」みたいな話がよく出てくる。これについては、色々なものが回答として挙げられるだろうと思う。
1. 特に私費の人であれば、外資系企業によるレセプションに顔を出しておくことは割と重要みたい
2. 経済や経営に不慣れな人であれば、関連分野について日本語での平易な本を買っておくのもいいかもしれないし
3. 英語をもう一段階鍛えておいても損はないし
4. 他校MBAの人とネットワークを作っておくと色々役立つし、
5. 留学を通じて何を得たいのか、Why MBA等について、建前ではなく本音レベルで再考してみると留学期間がより有意義になるかもしれないし。
自分は上記だと4だけやった。積極的にやったというよりは、友人に誘ってもらった会に顔を出したら思いがけず気の合う人々に出会った...という感じであったが、そのおかげで、ブログやFBを通じて自分の状況を相対化できたり、刺激をもらったりできたのでこれは良かったなぁと感じている。
それはそれとして、自分としては、「留学前に用意しておいた方がいいもの」として、「趣味」を挙げてみたい。
ゴルフでもテニスでも卓球でも、飲み会でもDJでも釣りでも料理でも旅行でも何でもいいと思うが、一定の深さ(のめり込み度合い) and / or 腕前があるものを持っておくとよいのではないかと思っている。
なぜ趣味があるといいのかについては、いくつか理由がある:
1. MBAで「役立つ」
無数のソーシャルイベント、スポーツイベント、エトセトラエトセトラ...こういったものを通じて友達と仲良くやっていこうと言うとき、趣味があることは確実に有利だ。ちょっとの言語面での不利は、ひとつの趣味で帳消しにできる可能性がある。
留学後に知り合いになったあるMBAの方は、留学当初は英語で苦労していたようだが、得意の趣味を生かすことで学内で自分の立場を確立し、今では生徒会の一員として活躍しているみたい。「俺が俺が」集団のMBAの中で生徒会の役員になるということはなかなかタイヘンなことであり、その役員就任という大仕事には少なからず趣味の部分が生かされたところがあるのではないかと勝手ながら推察している(まあ、メインファクターは人格の良さだろうけど。)
(※この「MBAをサバイブするのに使える」という発想は、趣味を冒涜しているようで本当は好きではない...でも、現実的に、趣味がMBAサバイバルに役立つのは間違いないので指摘してみた)
2. 留学生活は言うほど忙しいわけでもないが、学部1年生よりは時間は限られている
もちろん勉強とか就職活動とか色々あるわけだけど、やりようによってはMBAそれ自体はさほど時間を食わない。というか、場合によってはかなり時間を持て余す。特にあなたが社費で、金融あるいはコンサルタント出身だったりした日には、ほぼ確実に時間的余裕ができるはずだ。仮に独身だったらもっと。自分も、有り余る時間を有効活用すべく自由研究をしたりもう一つ授業を受けたりしたわけだが、残念ながらそれでも時間は余る。なぜならMBAは、統計やファイナンスを知らない人が就職活動をしながらでもギリギリ死なない程度のワークロードで設計されているからだ。
この有り余る時間を、「せっかくMBAに来たんだし、●●を覚えて帰ろうかな」(●●:各種スポーツ・趣味等)とちょっとだけかじるのもいいかもしれないが、色々な趣味をかじってはやめて...と食い散らかすには留学期間は短すぎる。米国に来てから打ちっぱなしを始めて、2,3回ラウンドをして、帰国したらもうゴルフクラブを握ることもない...とか、そういうのは人生の浪費以外の何と言えようか。
もし日本にいるうちに趣味が確立されていれば、あとはその趣味を思う存分当地で楽しむだけだ。1年2年あれば、必ず一定程度の上達は見込める。
3. MBAは、キャリアの基盤作りのみならず、人生の基盤作りでもある
MBAが終わると、多くの人はベンチャーや大手企業に入ったり戻ったりして、それなりのポジションで結構なハードワークに勤しむことになる。多くの場合相応の所得が得られるし、ほぼ確実に周辺には刺激になるような素晴らしい同僚がいることであろう。
だが、そんな恵まれたキャリアを歩むからこそ、MBA取得者はキャリア以外の人生についても意識的である必要があると自分は思う。というのは、上記のようなチャレンジングな環境でバリバリ働いていると、おそらく、仕事だけやっているだけでもかなり充足感のある人生を送ることができてしまうからだ。
毎朝早朝から深夜まで、交渉したり難しい計算したり世界を飛び回ったり。それらは素晴らしい経験であるが、人生の全てかというとやっぱりそうではない。「仕事が生きがい」でも勿論構わないのだが、そんな人でもいつかは仕事を中断したり引退する日が訪れる。一言でいうとライフワークバランスだが、仕事時間以外を有意義に過ごす「スキル」、職場以外の人と有意義な時間を過ごす「スキル」は(少なくとも自分にとっては)大変重要なものである。
もし激務にあってもそのようなバランスを何とか保ちたいのであれば、たまにぽっかり空いた日曜の午後とかそういった短い空き時間を有効に使うことができなければならない。そこで昼寝してインターネットしてではちょっとイタい。そんな日曜の昼下がり、「MBA時代にちょっとかじっただけのゴルフ」とかでは、おそらく全然楽しめないし、そもそもそんなことやりたいとは思えないだろう。
たとえば自分はゴルフとか音楽鑑賞とか(
卒業して激務生活を始める前までに、「かじる」レベルではなく「●●狂い」のレベルでの趣味を持っていないと、かなりの確率で卒業後の人生がキャリア一辺倒の人生となってしまう。さらに悪いことに、なまじ多忙なので、それでも一見問題なく人生は回ってしまう。働いてさえいれば、給料は増えて、うまい飯やうまい酒が飲めて。でもそれだけでは多分足らないと思う。忙しくなる前にこそ、楽しむ「スキル」を得ておいた方が良いと思うのだ。
4. 趣味の無いやつ、趣味の浅い奴はつまらない
最後は完全に自分の偏見。。別に自分と同じ趣味である必要は全くないのだが、何かしら熱狂的な情熱あるいは優れた腕前がある人は、少なくとも自分はとても魅力的に感じる。人間くさくていいし、人間的深みを感じる。
他方、そもそも無趣味な人とか、趣味が浅すぎて趣味があるのかないのかわからない人とかは(換言すると「休日に家で何やってるのか想像つかない人」)、個人的偏見だがあまり人間的魅力を感じられない。忙しい忙しいとか言ってだらだらと深夜まで宿題をやることで毎日「時間潰し」をして、長い休みには漫然と観光地に旅行に行って、暇になったら子供と遊んだりとか。宿題も旅行も子供との遊びも大変重要で充実したものであるのは間違いないが、時間潰しの手段としてそういったものを使うのは、イージーだが時間の無駄だ。ちゃっちゃと済ませて、情熱を持つ何かに時間をあてるべきだし、それができないようなパッションの薄い人に人間的魅力が備わるはずがない(「べき」というのはあくまで主観的なものであって、一般的規範的な意味で使っているわけではない)。
(まとめ)
趣味と言う言葉が狭すぎるなら、何らかのこだわり・情熱と言ってもいいかもしれない。そういうものは、
(1)MBAを乗り切るのに役立つし
(2)MBAの1~2年間を有意義に使うためには重要だし
(3)MBA後の人生をバランスよく生きるためには、仕事が忙しければ忙しいほど事前に趣味を確立させておくことは重要だし
(4)少なくとも自分に言わせれば、趣味に情熱を注げないような人が魅力的たりうるとは思えない。
なので、「留学して、忙しい最初の学期が終わったらぽちぽち●●を始めよう...」なんてのんきなこと言ってないで、既存の趣味を深めたり、新しい趣味にとっかかりを作っておくのはもはや必要不可欠なのではないかと思うのだ。。。
※ ただし、これは日本人MBA学生の9割の「普通の人」を対象としたもの。1割程度いると思われる天才系の方におかれては、趣味などに現を抜かすことなく何か大きな目標達成に邁進するのがいいのではないかと勝手ながら思っている。世界の最先端で何かを成し遂げようとしている人に対して「たまには息抜いて遊ぼうぜ」などと言うのはかなりムリだ。
ただ、9割の普通の人にとっては、趣味のある留学生活の方がたぶんいいんじゃないかなぁ、と言う話。もしあなたが1割の天才と自認しているのであれば、すいませんが無視して下さい...といった感じだろうか。
Tuesday, May 15, 2012
幸せとは
が、このおっさん、どうやら忙しかったようで、アメリカ人がよくやる「関係ない話を喋り倒すことでなんとなく発表したような雰囲気を作る」という技でごまかしてきた。案件の話はごく薄く話すにとどまり、ケースを通じて行った細かい計算や考え方については一切カバーせず。
その点においてこのおっちゃんはどちらかというとハズレだったのだが、彼がごまかしのために行った各種雑談の中に面白い話があった。聞いている最中は「関係ない話でごまかそうとしやがって」と苛立っていたので虚心に聞くことができなかったのだが、少し頭も冷えたので、せっかくなのでメモしておこうと思う
■ 幸せの4構成要素
そのオッサンが自身の経験や他の成功者との会話を通じて会得したところによると、幸せというものは主に4つから成るそうだ。
1: Wealth. 金や財産が全てではないが、金があると幸せになることが多い。
2: Love. 家族や友人に愛されているという実感は、あなたを幸せにする。なので、善きことをしたり、誠実に振る舞うのは、愛されるための手段として合理的
3: Being provided with opportunity. 成功につながるようなチャンスに恵まれていると実感できることは幸せに直結する。
4: Power to change someone else. 最後はこれだそうだ。他人の人生や心を動かすような大きなインパクトを与えることができるという実感は、筆舌に尽くしがたい幸福感を与えるとのこと。このオッサンはこの点に気付いてからは、自己充足の手段として、教育活動やコミュニティ活動の振興のため日々活動をしているとのことであった。
(小生感想)
自分もこれまでに幸せについて考えてみたことがあったが、これまでの自分の整理は「金」「愛情友情」「知的好奇心の充足・成長機会の充実」というものだった。これを自分主体な言い方から目的主体の言い方に変えれば、自分の整理は概ね上記1~3と同じものになるのかもしれない。稼ぎが良くて、妻子や友人に恵まれた環境のなか、「これからも、でっかいこと・面白いことができそう」という希望を抱き続けることができている状態。たしかに幸せだ。
しかし、4については、今日話を聞くまで意識せずにいたが、ちくしょう、これはその通りだ。取引先が自分の提案で態度を改めたとき。自分のツイートの後、他の人が明らかに自分の発言を読んで影響を受けたと思われるようなツイートをし始めたとき。etc. 自分の行動の結果他人が変わるというのは、たしかにかなりの、いや至上の快楽であるのかもしれない。
だからこそ人は権力を求めたり、政治家を目指したりするのかもしれない。だからこそ人は慈善活動やコミュニティ活動を行い恵まれない人々の行動を変えようとするのかもしれない(今日のおっさんはこれ)。だからこそ人は他社の高待遇を捨てて官庁に入り、法律を書いたりすることで人々の行動が変わるのを見ようとするのかもしれない。
これって、うまくやれば、モデル化できるのではないだろうか?現行の経済学のスキームでは、雇用創出とか環境改善とか貧困撲滅というのは単なるオマケみたいな扱いで、モデル上の合理的個人は基本的には個人利得の最大化を純粋に追及する設定だ。しかし、「他人を変えるという高次の欲求を満たす手段としての環境改善活動や貧困撲滅活動」というのは、合理的個人というモデルの範疇にうまいこと含めることができたりしないものだろうか。
今日のおっちゃんなんか、自分が幸せになるために教育問題に取り組んでいると言いきっていた。一般的な考え方である「目的→貧困撲滅、手段→稼ぐ」みたいな発想よりも、「目的→自己効用の最大化、手段→慈善活動、手段のためのメタ手段→稼ぐ」みたいな発想の方が自然と言うこともできないだろうか?
自分の周囲に偶然すばらしい人が多過ぎるからかもしれないが、明らかに、こういった「大きな問題」に意欲的な人は少なくない。これまでは自分はそういう人たちを率直に行ってしまえば「綺麗事いってないで、もっと自分に素直になれよ」とか思っていた。しかし、もしかすると、彼らも徹頭徹尾自己中心主義で、自己充足のための手段としてそういった「大きな問題」に取り組んでいるのかもしれない。
換言すると
これまでの自分の認識:貧困解決や環境問題といったテーマ自体が人生の目的にはなりえない。そういうこと言ってる奴は、そういうこと言ってる自分に酔ってるだけだ。なので、大きなテーマを掲げることは自己顕示欲の表象に過ぎずキモい。もちろん、ごくたまに、純粋に大きなテーマを目的として取り組める人がいるのは知っているし尊敬しているが、それは例外であり、99%の人は「大きなことを言って酔っている俺」にしかなれない。そんなことなら、徹底的に他人を変えることを諦めて、自己改善を探求した方がよいのではないか
微調整された自分の認識:他人を変えることが幸せの一要素であるならば、その手段として、多数の人の行動が変わるような「大きなテーマ」に取り組むのはある意味合理的であろう。大きなテーマを掲げるのは自己顕示欲というよりは「他人を変えたい」という欲望の表象であり、「へっへー自己中野郎が」と馬鹿にすると言うより、むしろ「もうそんな高次の欲求にお着きしたんですか」と称賛していい性質のものであるのかもしれない。
と言った感じ。大きなテーマを掲げている人を必ずしも「自分のことが可愛くて仕方ないナルシストが自己愛を変形した上で他人にふりまいている」とネガティブに評価せず、「金や愛といった初級は既にクリアして、他人を変える快感に気付き、それを愚直に追及している上級者」とポジティブに評価した方がいいのかもしれないということ。
※ あるいは、自分がMBAに来てやや考えを強めた「他人は変えられない」という発想は、「他人を変えるようなことは、俺にはできそうにない」という絶望感の裏返しが無意識に表れたものなのかもしれない、、、と少し冷や汗。だとすると、自分には、安西先生の「諦めたらそこで試合終了」という言葉を喝代わりに送るべきなのかもしれない...「他人を変えることができたらウヒョヒョーイだけど、多くの場合それは簡単ではないよね」くらいの中庸な感じに認識を改めておいてもよいのかもしれない。。
最後に引用
美食を芸術の域にまで高める条件は、それは唯一、人の心を感動させる事だ。 そして人の心を感動させる事が出来るのは人の心だけなのだ。材料や技術だけでは駄目だ!(海原雄山)
Wednesday, May 9, 2012
エンジニアvsMBA
こういう話は主に、「正解」についてどう考えるかという文脈で出てくることが多い。なので今回は、エンジニア的正解と、MBA的・あるいは現実的な正解についての考え方の相違について考えてみる。
■ エンジニア的発想
あくまで自分から見た感覚論であるが、自然科学でトレーニングを受けたエンジニアの人には、こういう発想の人が多い気がする:
・ある問題について、唯一無二の絶対的な正解は存在する
・その正解は唯一無二であり、全ての人はそれを正しいと認識すべきである
水素と酸素を化合させたら水になるし、100の力で壁を押せば得られる反作用も100。まごうことなき事実であり、この実験を誰がやったとしても、結論は変わらない。もっと簡単な例でいえば、1+1=2であり、1+1が2以外になることは認められないし、あまねく人は1+1=2と理解すべきである、と言う感じ。
正解は「皆がそこにたどりつくべきもの」と思っているので、皆が正解にたどりつけるような工夫をするという発想はあまりない。あっても、せいぜい、正解についてわかりやすく説明するといった程度。
■ MBAから見たエンジニアの問題点
極端な言い方で言うと、MBAは(少なくとも自分は)「正解?何それおいしいの?どうでもいいや」くらいに思っている。ことビジネスの世界においては正解など存在しないからだ。「両者のネゴシエーションの結果、合意形成されたもの」とか「オークションの落札価格」といった、結果的にどのようになったかというものは存在するが、あるべき水準というのは机上にしか存在しない。
MBAから見て、エンジニアは、その自然科学的価値観を現実世界に間違った形で持ち込んでいる人が少なくないという印象がある。
・計算によれば株価は1,000円となるはずで、いまの株価700円は間違っている
・放射能は微量であれば有害ではなく、一喜一憂する日本人は間違っており、認識を改めるべきである
・アメリカではベンチャー企業がVCからファイナンスしてもらえるが、日本ではそうはいかない。日本は間違っており、金融業界は態度を改めるべきである
など。
MBA的発想を持った自分からすると、そういうことを言うエンジニアは社会科学的真理のなんたるかを誤解している。自然科学的真理も、単なる思考的枠組みのひとつにしか過ぎないのに。
たとえば放射能が科学的に微量であればあまり害はなかったとしても(自分は科学者でないのでその辺知らない)、一般市民が放射能のことを恐れていて実際に食べ物を選んだり引っ越ししたりしている人々の心理や行動こそが重要であり、「放射能が有害でない」という科学的正解はあまり意味がない。
また、「正解は●●なのだから、皆●●と考えを改めるべきなのだ」というのは、「1+1=2である」という自然科学的世界ではOKだが、人の認知が絡む社会科学的世界では机上の空論でしかない。
仮に人々の認識を変えたいのであれば、「正解が何であるか」からスタートして「正解は●●です」と主張するだけでは駄目だ。「人々がどう考えているか」からスタートして、「あなたはこう考えているようですが、そこにはこういう誤解があります」という風に、誤解を解くところから始めないとすれ違うだけになってしまう。MBA的発想としては、正解は唯一無二の形で存在するものというより、人為的にそこに誘導するものと考えた方がしっくりくるかもしれない。単に「こっちが正解だぞ、こっち来いよ」と言うだけでは誰も動かない。人々がどう考えているか真剣に考えて、彼らが動きやすいような説明などを考えてあげる、すなわち「説得する」という作業が必要なのだ。
あるいは、そもそも、人々の認識を変えるべきとも限らない。もし自分が「正解は899円である」と知っているのに株価が600円であったなら、自分にできることは「株価は899円となるべきだ」と主張することというより、静かに株を買って899円になるのを待つことだろう。放射能が有害でないと知っているのなら、放射能のせいで必要以上に価格が下がっている食品を安く食べて幸せになることも一つの選択肢だ。人々を正解に導くという苦難をわざわざやらずとも、単にその人々の誤解から利得を稼ぐというのも一つの手だ。しかも、あなたがそうやって静かに正解と人々の「誤解」を利用して稼げば、株式市場はそれに反応して、結果的に株価はより「正解」に近づくのだ。わざわざ声を大きくして「正解はこっちだぞー」と叫ぶだけが選択肢ではないのだ。
■ で、何がいいたいのか
ここまで、コテコテのエンジニア的発想に、コテコテのMBA的発想をぶつけるという試みをしてみたが、最終的な結論は「エンジニアよ、お前らもうちょっと現実知れよ」というものではない。他人の意見を変えることなどナンセンスだし多分不可能というのが自分の立場だからだ。
ここで自分が言いたかったのは、「エンジニアは往々にしてそういった真理主義的発想をしがちだが、真理に到達する能力があるという点において確実に有用なのだから、自分のようなMBAが科学者と現実をつなぐような役割を意識的に引き受けることで、全員ハッピーになればよくね?」というもの。
言い換えると、仮に身の回りに上記のようなコテコテの真理主義者エンジニアがいたとしても、自分の仕事は彼らに『空気読め。現実を見ろ』と説教することではない。そうではなくて、彼らの知識と現実とを結ぶハブとして桜木花道バリのスピードで『自ら動く』ことであり、そのためには一生懸命エンジニアのことも現実社会のことも勉強すべきなのではないだろうかということだ。
なんか大学にいると、コテコテの科学者か、そういったエンジニアに「お前らなぁ」と愚痴を言う文系しかいない気がしてきたので、むしろこの状態を解決することこそ俺の仕事かもしれないということを思った次第。。
※ なので、理系出身者がMBAに来るのはものすごくいいことだと個人的には思っている。え?経済学部出身金融マンがMBAに行く意味?まあ今日はその辺はちょっと...アワワワワ
Thursday, April 19, 2012
猫
「これは今日のうち書いておきたい」というネタも特にないので、ここ最近「書こうかな」と思っていたネタを虫干し。
■ 猫
猫ひろしはそんなに悪いのか。というか、批判している人たちは一体どういう立場から批判しているのか。
完全な個人的見解だが、人を無邪気に批判してもまあ許されるのは、①上司 ②親友 ③家族 といったところで(上司は若干怪しいが)、それ以外の赤の他人が猫ひろしを批判したいのであれば、
・ 批判する内容(陸上、国籍等)について、彼よりも卓越した実績を有する
・ 批判する内容について、猫ひろしに万一反論されてもちゃんと真摯な議論ができるレベルで勉強している
・ 猫ひろしの行動の結果、本人が直接何かしら不利益を被っている(ただし「気分を害した」は除く)
あたりの資格を有している必要があるとけっこう真剣に考えている。
それに、いやほんとに、猫ひろしが本件実現のためにどれだけ努力したか知ってるのかお前らはとお聞きしたい。自分も知らないが(えっ)、おそらく、情報収集からその実行に至るまでのプロセスは平たんではなかっただろう。きっと、呑気に批判しているあなたより1万倍は努力していたと思うのだ。
一生懸命努力すれば許されるってもんじゃない?もちろん。努力すれば良いというものではない。結果がすべて?仰る通り。しかしこの点において、猫ひろし、結果出してるじゃん。結果を出したからカンボジア代表になったのだろう?ところであなたはどんな結果をあげたのだ?
気持ちはわかるが、猫ひろしより努力していないなら、あるいはマラソンカンボジア代表と同じくらいの素晴らしい結果を出していないのであれば、批判するエネルギーを他のことに向けた方がよほど生産的だと思うのだ。部屋でマスターベーションしてた方がまだあなたの人生にささやかな幸せをもたらすんじゃないかとさえ思う。
一般論レベルで議論すると、批判が何かしらポジティブなものを生み出せるシチュエーションは、正直なところ滅多にない。仕事における議論、学術会議、そのくらいのものだ。日常生活レベルでは、人の批判する暇あったらその分自分の努力しとく方がかなりの確率で生産的であると思う。てっきりこれは誰もが知ってるライフハックだとばかり思っていたが、猫の一件を見ると皆全然わかってないじゃないかと思って憤ってしまう。
著名ブロガーが政治や経済を批判しうるのは、彼らが批判できるだけの勉強や経験蓄積をちゃんとしているからだ。
大学教授が自分のライティングをぼろくそに批判できるのは、彼らが当該分野について徹底的に勉強してきたからだ。
ベンチャーキャピタリストがベンチャー企業のビジネスプランを酷評できるのは、彼らが当該業界でトラックレコードを出してきたから、身銭を切っているからである。
自分の妻が自分のあれこれに文句を言ってくるのは、妻がそれにより直接的な不利益を被るから、あるいは妻が真剣に自分のことを気にかけてくれているからである(たぶん)。
何もしてないあなたは、日本経済を批判する暇があればミクロ経済学でも勉強すればいいし、どこぞのベンチャー企業の失敗を笑う暇があれば自分で何かビジネス考えてみた方がよほどお互いのためになる。ビジネスプランが難しいなら、多分腕立て伏せとかでもいい。腕立てとかちゃんとやれば、終わる頃には猫ひろしに対するネガティブな感情など霧消しているんじゃないかしら。
自分自身は、批判をちゃんと受け入れることのできる人間でありたいと思っているし、批判してくれる友人や仕事相手に恵まれたいとさえ思っている(もしかしてマゾだったりして)。つまり、個人的には批判大歓迎である。でも、他人の批判は殆どの場合エネルギーの無駄なので、ツイッターとかに独り言形式でちょろちょろっと当たり障りないレベルで愚痴を書いたり家族に愚痴言ったりしたら、あとは忘れて勉強とかゴルフとかしたいと思っている。なので、ドヤ顔で言う資格もないのに他人に批判ぶっている人を見ると疲れてしまうのだ。
自分は猫ひろしを批判する立場にはなく、応援するかしないかだけがオプションとして与えられている「その他」カテゴリーの人に過ぎない。彼を批判している99%の人も同じ立場。気に入らないならスルーして仕事なり恋愛なりマスターベーションなり、自分のこと楽しめばいいじゃないか。もし少しでも共感できるなら、自分のように応援すれば、何かしらいい気分になって人生得した気分にさえなるのだ。無為な批判は結構。できれば聞きたくもないんだよな...
という長ったらしい批判(あれ、批判してるぞorz)
※ もちろん自分も多かれ少なかれ言行不一致で、少なからず無為に批判言っちゃったりもするのだけれど...嗚呼人間だものorz
Sunday, April 8, 2012
ブーメラン
● 他人や社会の問題について関心をもったり批評すること自体は悪くはないが、その落としどころは留意しないとまずい。その思考のベクトルを「他人を変える」「社会を変える」という方向に向けるのはあまり生産的ではない。
そういった思索を意味あるものにできるとすれば、それは、「その思索から自分がどう変われるか」「そういった社会の動きに自分がどう対応するか」という、自分レベルに落とし込むことで初めて意味が出るのではなかろうか。
他人や社会というのは観察・対応するものであり、変える対象として見てしまうと人生がしんどくなるように思われる。もちろん、ときには変えることができるかもしれないし、変えることで多かれ少なかれ自己満足できるのかもしれないけど。
※多分、この発想は、自分の根底にあるものを改めて掘り起こしただけだと思う。このブログだって、誰かに影響を与えたいと言う意図はなく、単に「王様の耳はロバの耳」と叫ぶための穴・言いたいことを言ってすっきりするための掃き溜めという意図しかない。
● と、偉そうなことをいったそばから、悪口シリーズ
・ある程度勉強している(ことになっている)社会人や留学生なら、FBやTWに、どう考えてもイタいブログ記事とかをシェアするのは恥ずかしいぞ...
特にMBAで経済学をかじったくらいの人が陥りがちな罠。プロ筋で「痛い人」と言う評価が定着してしまっている人の言説(しかも得てしてブログ)を「いや本当に考えさせられます」とかコメントを添えつつFBにポスト。
自分が仮に何か意見を主張したいのなら、意見の含まれていない報道記事を張り付けた上で、自ら議論を展開するだろう。人の意見ーしかもトンデモーに便乗して「いやーこれは参考になります」とか、ちょっと辛い。
・「日本人は議論のとき、ロジックで勝負できず感情的になったり人格批判したりする」と言いつつ特定の誰か(や、そのロジック)を批判する向きがあるが、そういう人に限って議論のときの言い方が稚拙・乱暴でIrritatingであったり、下手すると感情的になっていたりする。
ロジックで純粋に勝負したいのであれば、普段よりずっと丁寧に言葉を選ぶべきだと思う。確かに留学先ではロジックが尊重されている気がするが、それは前提として、皆がディスカッションのときはきちんと言葉を選んで感情的な言い合いになることを回避しているからだと思う。感情に任せて好き放題自分の理屈をまくし立てた上で「あいつはすぐ感情的になる」って、それどんな罠だよ..と思う。
相手が感情的になるとしたら、それは相手が議論慣れしていないからというより、自分の物の言い方が悪いからだと思った方が良いと思う(自分の過去の経験に照らしてもそう思う)。相手を苛立たせておきながら「これだから日本人は...」という人を見て、わがふり直したいとふと感じた。
・先日友人と話していて、仮説が確信に変わりつつあるのだが、「なまじ頭がいいから、あるいは中途半端に頭がいいから、自説に閉じこもり外部から素直に学ぶことができない症候群」というものが存在すると思われる。
自己、あるいは自身の知識に対して過度の自信があるとそうなる。あらゆることについて「正解はオレ」状態となり、人が何を言っても聞き入れない。場合によっては、認知バイアスを発動して人の発言を自分の都合の良いように歪曲して自己正当化の材料に使う。
例えば留学生を例にすると、学びに来たのか、或いは「自分がイケてるという仮説がやはり正しかった」と妄想するために来ているのかよくわからない人とか。なまじ頭がいいばかりに、ぱっと「俺にとっての正解」みたいなものが頭に浮かんでしまい、基本的姿勢として、それ以外の意見を否定的に捉えてしまう、みたいな感じ。とりあえず愚直に学ぶことが出来ている人と、そうでない人で、この2年間は大きく意義が異なってくるのだろうと思う。
という、色々と罵詈雑言。
卒業後、この罵詈雑言がブーメランとなり自分の至らなさを浮き立たせることになるのか、あるいは自分がこういった問題に自覚的になったことでよりよい人間になることができるのか。ある意味、自分についてリスクを取った気分である。。
Saturday, April 7, 2012
Jobsは真似できるのか?
一般的に、少なくとも日本では、Jobsは「偉大なイノベーター」という文脈で語られることが多いと思う。実際、iPodやiPhoneといった革新的な製品は、Jobsのリーダーシップなしではこの世に生まれることはなかったのだろう。
他方、このRumeltというおっちゃん(授業に出たが、枯れた爺さんという感じだった、、、)に言わせると、彼がすごいのは、
・再就任してすぐ、極限まで会社をスリムにした。色々な事業から撤退し、人を切り、etc.
・で、一部の製品に資源をフォーカスする方向にかじ取りを切り替えた。
上記2点は、いわゆる、選択と集中。さほど目新しい話でもない。その教授が感銘したというポイントは、彼が直接Jobsから聞いたという下記のような話:
教授「あなたの再建手腕は素晴らしい。が、Wintel圧倒的優位の業界構造はいまだ変わっていないのだが、あなたが今後どうしようとしているのか見えない。あなたはこれからどうしようと考えているのか?」
Jobs「自分は、次の大きな動きを待っているのだ」
教授が感銘を受けたのは、「選択と集中による立て直しを首尾よく進めたこと」でもなく、「壮大なビジョンを掲げたこと」でもない。彼が感銘を受けたのは
・業界の、要所要所でGame Changingな変化があるという潮流を正確に理解し、
・その変化を絶対逃さないようにすべく、
・今の時点で何かするというのではなく、その来たる将来に最大限迅速にその変化を捉えることができるよう、組織をスリムにしておく
という考え方だそう。
実際、Appleは、その後、大きな変化を捉えて、デジタル音楽市場やスマートフォン市場で圧倒的な優位を築くに至っているが、それはひとえに、Jobsが「変化にいつでも対応できるような」スリムな組織を作り準備していたからだ...というオハナシ。
この話を聞くと、Jobsの経営について、多少なり一般人でも参考にできるところがあるように思えてくる。
一般的に言われる、Jobsのイノベーティブなところや、クリエイティブなところは、正直学習やトレーニングで再現可能なものではないと思う。「へーすごいね」以上、参考にできるものはないように思う。
他方、上記に上げたような「変化に備え、対応できるような組織を作っておく」という発想、及び実際そのようなスリムな組織を作ることは、ある程度模倣・参考可能なものであるように思われる。たとえば自分が○ニーのコンサルをやったとする。仮に自分が優秀なコンサルでも、ソ●ーの将来向かうべき重点分野について、明確にCEOを説得できるとは思えない。しかし、将来チャンスが来たときにそれを可能な限り効率よく掴めるように、現時点の組織をシェイプアップしておくという提案はアリなのではないかと思われる。
最近ではデザイン思考やアントレ教育に代表されるように、MBAでもクリエイティブな領域に対する理解・関心が強まっている。しかし、そういった領域に立ち入ることはそれはそれとして、「来たる将来に、ときの経営者がうまくイノベーションできるよう、地盤を整えておくこと」についていえば既存のMBAの考え方で十分対応できるはずだ。なんというか、今直ちにクリエイティブな構想を出すことだけが最適解ではなく、将来そんなビッグチャンスがきたときのために筋トレしておくという発想もあるのだなぁ、そしてそれなら既存の枠組みでもちょっとは役に立てそうだなぁ...などとちょっと考えた次第。
※ でも、こういうオハナシは楽しいが、学校で学ぶことなのかは不明。
Friday, April 6, 2012
足りてないものは何か?
この授業では、いわゆるアルファについて色々な観点から見た。
「αとは何か」「マルチファクターモデルで見るとαはどうか」「αに自己相関性はあるのか」「αは実際存在するのか」「ロングオンリー、HF、PE等でαに相違はあるのか」等。
で、そんな中で印象に残った話の一つが、BerkとGreenが2004年に発表した論文の内容で、
・投資業界において、制約条件となっているのは資金ではない。金は余っている。
・制約条件、足りていないのは運用スキルあるいはそれを持った人。
・という需要/供給条件なので、すべてのアガリ(Rent)は投資家(金)ではなくファンドマネージャー(人)に帰属することになる。
・具体的には以下のようなプロセス:
(1) スキルが高いファンドマネージャーのもとに金が殺到する (カネは制約条件ではない)
(2) ファンドサイズが大きくなればなるほどリターン(α)は低下する
(3) 結果的に、αがゼロになるまで資金流入が続くことになる。カネは制約条件ではなく有り余っているので、αがプラスのところで資金流入が止まることはない
(4) その結果、平均して全てのファンドのαはゼロになることになる。この世界観では、αではファンドの実力は最早測定できず(みなゼロなので)、ファンドサイズが実力のメルクマールとなる
・実際、彼らの測定によれば、αは有意には認められない。
これは、HFとかのパフォーマンスをどう解釈するかといったテーマの講義の中で取り上げられたものだが、金融業一般に応用できるコンセプトであると思う。すなわち
・カネは余っており、少なくともマクロレベルでは希少性を持たない
・制約条件(足りていないもの)は満足できるリターンを上げる投資主体である
・現実のビジネスの世界では、アセットマネジメントの世界のように「αがゼロになるまで資金流入が止まらない」ということはないが(例:北海油田を見つけたとしても、石油を掘るのに必要な資金を集めたらあとは不要になる)、
・とはいえ、アガリの大部分は、スキルあるいは投資機会を持つ事業主体・投資主体に帰属することが多くなり金融投資家はカネを潤沢に持っているというだけではリスクに見合った以上の超過利益を獲得することは難しい
さらに換言すると、
・平均的/長期的に均された状況においては、投資家(カネの出し手)と事業家(カネの使い手)であれば儲かるのは基本的に事業家。
・カネを出すだけのビジネスは、リスクに見合ったリターンは獲得できるが、αの獲得はムズい。
・なので、投資家にとっての示唆は「リスク見合いのリターンであきらめるか、あるいは例外的にαを獲れそうな状況を探すか」。
・個人レベルでの示唆は「金を出す側ではなく、金を出してもらう側に行った方がワリがいい可能性が高い」ということではないだろうか
といった感じ。
少なくとも日本では、このコンセプトはかなり当てはまりがいいように思う。一般投資家vsファンドという構図でもそうだと思うし、投資ファンドvs投資先企業 という構図でも当てはまると思う。
これをもとに色々思うこともあるのだが、あまり考え出すとドツボにはまるので、とりあえずここまでとしておきたい。
Wednesday, April 4, 2012
理論と実践
・着手して初めてその存在に気付くトラブルの多さ。計画が思っていたよりも煮詰まっていなかった(ので計画通りやろうにも進まない)、なぜかモチベーションが高まらない、チームメイトが自分の思う通りに動いてくれない、「これを使えばちょちょいのちょい」と思っていたフレームワークがうまくあてはまらない、etc.
・なので、いかなる作業であれ、
(1)Quick Start
(2)余裕を持ったプランニング
(3)予期せぬトラブルに対する覚悟
(4)やる人、やった人の批判に終始せず、彼らのアクションから何かしら学び取る
といったものが必要だ。ちなみにMBAは特に(3)と(4)に有益である。外国人同級生の行動・思考は日本人にしてみたら奇想天外であることが多く、予期せぬトラブル及びそれへの対処という経験が無数に得られそういったものへの許容度、「あそび」が増大する。また、MBAのやったもの勝ち、リスクなんてないという風土で1~2年間過ごすことで、日本で働いているとついリスク回避的になってしまいがちなところを多少「緩める」ことができる。また、学校で学ぶ各種理論は、新しい何かを生み出すには正直役不足だが、やってしまった失敗やライバルの成功などを省察するには実に便利である。
こういった文脈において、理屈を知っていることが時に邪魔になったりする。なまじ理屈を知っていることから楽観的な計画を立ててしまったり初動が遅れたり、あるいは計画を不必要に煮詰めて完璧になるまで動けなかったり。あるいは、進むべき方向性が複数あるときに、手持ちの理論ストックに引きずられ、最適な方向ではなく「知っている方向」に向かってしまったり。
・教科書の理屈は、学者はさておき実務家にとっては、「何をすればいいか考える時間を節約するためのツール」に過ぎない。理論/フレームワークを知っているということはゴールではない。思うに、実務において嫌われる「頭でっかち」という症状は、上記のような、なまじ理屈を知っているからこそ行動が遅れたり歪んだりすることを指すのかもしれない。そういう意味では、極論すれば、頭でっかちは「とにかくまずやってみる」ことで相当程度緩和できるように感じられる。
理論やフレームワークを使い、企画書→詳細設計→具体的行動という進め方をする一辺倒ではなく、「とりあえず適当になにか始めてみる→何か見えてくる→解決・反省・抽象化」という帰納的プロセスをできれば同時に回すことで、その行動にリアリティ・フィージビリティのようなものが付帯するようになる。
※もちろん、「とりあえず目の前のコイツに着手してみる」というボトムアップアプローチだけでもNG. 頭でっかちの対極にたるのが「現場たたき上げ」だとすると、悪いたたき上げはボトムアップしかしない場合が多いように思われる。そうなると、常に現場や現実を許容・肯定する形でしか物事を進められないので、行動が得てして中途半端あるいはしょぼいものになる。答えはSomewhere between the twoなのだと思う。
Saturday, March 31, 2012
7年目Done!
幸いなことに、これまでの7年は、会社が要所要所で転機を用意してくれたので、飽き症の自分であるが飽きたりすることなくノホホンとここまでやってくることができた。支店にも行けたし、役所にも行けたし、留学も行けたし。自分は飽き症な社会不適合者だという自覚があるので、このキャリアパスはかなりの結果オーライと思っている
(そんな自分の適性っちゅうか不適性を見極めた会社側が、それに応じたキャリアパスを提供してくれているのかもしれんけど、、、掌の上の孫悟空...)。
早いタイミングで結婚して、子供もできたこともかなりの結果オーライだった。家族が出来たことで少なからず責任感のようなものができた(と思い込んでいる)し、独身のときと比較してストレスが顕著に少ない気がするし。
さあいよいよ、この留学が終わったら、いよいよ人生/キャリア/父親業どの観点から見ても新しいステージ或いは”本当の勝負”が始まる。けっこうワクワクしていて、卒業を3か月後に控えて帰りたくない半分、早く帰って色々なことをやりたいというウキウキ感半分という心境になっている。
色々目標のようなものはゆるーく存在しているのだが、せっかく卒業まであと3か月あるので、ここで帰国後の目標を固めず、もうちょっと構想を練る時間を確保してみたい。ちょっと真剣に今後の身の振り方を考えて、できれば帰国後スタートダッシュをキメたいものだ。。
Wednesday, March 28, 2012
Don't rain on someone's parade
・生徒会メンバーのG君が「XXXというイベントをしたいと思っており、関心がある人は連絡くれ」というメールをしてきた
・自分は関心がなかったのでスルーしたのだが、
・とある学生が返信で「XXXというイベントはナンセンスではないか」という議論を投げかけ、さらに一人がナンセンス論に同調した(やり取りは全て学年全体に届いている)
・その後他の生徒会メンバーから「まあまあ、そういう考え方もあるかもしれんけど、ナンセンスということもないだろう、俺は関心あるよ」というやんわりとした反論メールが来て、
・最後に、言いだしっぺのG君。温厚な人なのだがどうも思うところがあったようで厳しい反撃:「自分は、そのイベントに関心があるか聞いているだけで、そのイベントについて哲学論争をするつもりはない。興味がないなら無視してくれればそれで十分で、興味がある他の人の邪魔はしなくてもいいだろうに(Let's not try to rain on someone else's parade)」。
色々論点はあろうが(自由意見を言っただけでそこまで怒らなくても、、、等)、自分は本件それ自体というよりは、G君の「Don't rain on other's parade」という発想にわりと考えさせられた。
政治や思想に不勉強なので正しいかどうか全く不明だが、自分はこの発言からG君の強いリベラリズムを感じた。自分にとってのリベラルとは「俺はあなたの邪魔をしないので、あなたも俺に干渉しないでくれ」というもの。自分の中で対立的な概念は共和主義・保守主義といったもので、「公共の利益・『正義』・その他各種rationaleがあるのであれば、俺はあなたに干渉しうる」といったイメージ。
アメリカに来て、あるいは年を取ってだんだん自覚的になってきたが、自分は上記の対立軸で言うとややリベラル寄りであるように感じている。
・他人のことが気にならないわけではないが、それ以上に自分のことを邪魔してほしくないので他人に口を挟むのを避けたり、
・自身の行動あるいは考え方の修正・変更を求めてくるような相手に対して、相手もびっくりの早い段階で声を荒げてしまったり(自分がかっとする理由の8割は「干渉はやめてくれ」で説明できてしまう気がする)
だからかわからないが、留学前に新人研修を受け持ったときは、最初自分が彼らに助言しているのか干渉しているのかわからず混乱し、やっていて気持ち悪くて仕方なくなってしまった。途中から、意識無意識に、演技するというか「教える自分」みたいな言わば別人格を使うことで気持ち悪さをバランスさせていた気がする。そして今では、一部言動を通じ、助言を超えて干渉をしてしまっていたような気がしており反省している。
あるいは、留学してから一度だけ自分でもわかるくらい激昂してしまったことがあったのだが、それを今思い起こすと、相手が「自分にはお前の行動を変える権利がある」と明示的に主張したことが一番カチンと来た。自分の奉じるリベラリズムが、万人が当然に共有する前提であるかのような錯覚を持ってしまっていたので、相手が当然であるかのごとく干渉してきたときにカッとしてしまったのだ(まあでも、その経験以来、リベラリズムは複数ある思想の一つに過ぎないと自覚することができたのでその口論を今では感謝しているが)。
といいつつ自分は、完全にはその思想を実践できておらず情けなさを感じ続けている。
・人に干渉するなと言いつつもついつい他人の行動に口を挟んでしまうこともあるし、
・本人に言わずとも、ブログや家族とかに「あいつがさぁ、、、」と愚痴を言うのは日常だし
・そこまで深く考えているわけではないが、徴兵制やら各種法制度とか、そういったものを無制限に嫌っているわけではなく、むしろ最低限のルールは社会が社会であるための潤滑油として必要だと思っていたり
とか。
つまり、自分は「いい意味でのリベラル」でありたいと思い他人にはそれを多かれ少なかれ要求しているくせに、自分自身についてはその原則を完全には適用できていない大甘野郎であると自覚している。
とりわけ、自分が選んだ(あるいは結果的に進むことになった)道とは別の道に進む人のことを腐すことで自身を正当化させたいというしょうもない衝動がときどき増大して、明示的に他人の行動を腐してしまうことが多い。進路とか、ライフスタイルとか、果ては着る服のブランドとか。もう自分がポジションを取っているものであれば何でも。
そんなしょうもない人間であると最近問題意識を感じ続けていたので、G君の「他人の足まで引っ張らなくてもいいじゃないか」という発言はまるで自分への言葉であるかのごとく刺さってしまった。自身の内奥にリベラリズムを感じているのであれば、ある程度、その原則を貫く必要がある。すなわち、干渉が嫌なら、他人のパレードに雨を降らせるようなことをしてはならないのだ。
とはいえ自分のしょうもない性質は一朝一夕では改善しないだろう。長期的には自身のリベラリズムを徹底させる習慣を形成するのが解決策であろうが、短期的にはどうしたものか。自分がいま短期的な(もしかしたら長期的にも)ひとつの解決策になりうると感じているものがいくつかあり、その一つが(匿名での、あるいは非公開での)ネット発信。つまり、ブログやツイッターにネガポジ含め感情をぶつけるという行為もある程度は正当化されるのではないか、というのが今日の結論のひとつ。公人として発言していくのであれば、その発言に一貫性が求められるし一言一言にマーケティング要素を込める必要性も出てくるが、その点、匿名でやっている今のブログというものは、今まではあまり自覚的ではなかったが、自身の精神的均衡を保つのにそこそこ役立っているのかもしれない。一言で言うなら、「人への愚痴や文句、止められないならブログやツイッターなら構わないから、その分対人では慎め」と言う感じだろうか。ニュートラルな発想ではないかもしれないがそんなことをG君のメールを契機にふと思った。
Sunday, March 18, 2012
持つべきものは...
あまりに参ってしまい、思わずツイッターに状況をデフォルメなしに書いてしまった。協力者がいないと終わる、参った、と。
すると、何人かのツイッター知り合い(?)がそれを拡散してくれて驚く。うおぉすげぇ、これがweb2.0の世界か...(多分違
その後、留学前から付き合いがあり同じタイミングでMBA留学することになった友人(ツイッター上でも繋がりあり)が、彼女のネットワークをシェアしようか?と打診してくれて、結局そのご縁をたどりケースを書かせてもらうこととなった。
本件(ケース執筆にあたっての協力者さがし)は、基本的にはメールでやろうと思っていた。これまでセミナーやら何やらで知り合った投資家(といってもほんの数名しかいないけど..)に、学校のアドレスからフォーマルなメールを送るのが最善唯一の方法だと思っていた。実際に数名にはメール送信を行っていたし、最終的にはその誰かにJapanese 土下座をして頼み込むことが唯一の道だと思っていた。
なので、まさか本件がツイッター経由で解決することになるとは(ツイートしたものの)夢にも思っていなかった。拡散してくれた本名も知らぬ知人たちや紹介してくれた友人に感謝するとともに、出会いの妙というか、なんというか、あるいは「いとあはれ」と言うのが一番すっとくるような心境を抱いている。
※厳密に言うと、打診してくれた友人はもともと知っていた間柄であり、ツイッターのおかげというのもちょっとだけ違和感がある。もしかしたら上記「数名の知人投資家」の後にはMBA友人にメールしまくっていたかもしれず、そしたら今頃「メールすげぇ」とか「俺以外のMBA日本人学生すげぇ」という論調になっていたのだろうし。まあでも、やっぱりツイッターの力のようなものはひしひしと感じる。匿名ゆえのフラット・カジュアルなやり取りができるし、これまでの経験上匿名での付き合いからリアルでのやり取りへの移行も(そこまで)難しくはない(色々赤面すべきところはあるが)。地元の美味しい店をたくさん知れたし、自分のいる業界で自分の3~5歩先を行っている人々のカジュアルな話を目にできるし、etc。
※ケースのノルマは2つなので、あと一つはチームメイト諸兄になんとか探し出してもらわないと死ぬので、本当は安堵している場合ではないのだが、どうも彼らのケツをどう叩けばいいのかわからない、、結局じっと期待して待っているところ。。
上記のような「ツイッターすげぇ」みたいな感想も抱いたのだが、もっとベタな感想も抱いていたりする。すなわち、やはり持つべきものは友達であり、自分が彼らの有形無形のサポートの上でギリギリサバイブで来ているということに対する意識・感謝とか。あるいは、散々「Give & TakeではなくGive&Giveでもまだ足りない」とか言っておきながら結局はTakeばかりしてしまっている自分への羞恥とか、するっとGiveしてくれたその友人への敬意とか(おそらくその友人にブログは見られていないはず、、という前提でクサイこと書いてしまっている..)。
なんというか、普段散々偉そうなことを言っていても、ちょっとピンチに陥り「いい恰好しぃ」の薄皮が剥がれて自分の本性のようなものがちょっとむき出しになっただけで、自分の感情がいかに単純な構造になっているかわかってしまう。自分がピンチに陥っていない平常状態で、誰か知人がFBとかブログとかに「みんなのサポートにマジ感謝」とか言ってたら、自分は間違いなくその人に対して「日本のラッパーかよお前」とかドヤ顔で言い放つ確信があるし。まさか齢30/子持ち/MBAとかなのに、この局面で上記のようなナイーブな感情を抱いたことについて、情けない話ではあるのだが、自分の心的構造を後刻から振り返る良い材料にでもなればと思い一応記録しておく。
Tuesday, March 6, 2012
ウチとソト
どうも自分は、友人知人のことを「ウチの人」「ソトの人」で分けて、ウチの人を軽視してソトの人との接触を好む傾向(好み)があるようだ。たとえば、
・勤務先の同期。会社にいたときは、一部の特に気が合う人を除いてはあまりこちらから積極的に親しくしたいとは思えずにいた(そのせいで、わざわざ都内の寮を避けバーチーにある自宅からの通勤を選んだり)。でも、外部に出向していたときとか、留学している今とかは、割と素直に友人として同期の何人かとコミュニケートできている気がする。
・出向先の同僚。出向者で外国兵集団のようなものができている。最初は知らない人ばかりだったので親しくしようとしていたが、2年目は(おそらく自分のなかでソトの人からウチの人へのカテゴリー変更がなされて)同僚とつるむよりも出向元すなわち勤務先の同僚と飲んだりまったく外部の留学準備仲間とつるむ方を好んだ。でも、今では彼らのことをけっこう懐かしく思っていたりする。
・留学先。留学した当初は、そもそも国籍も違うので同級生のことが「まったく違う世界から来た人達」すなわちソトの人と認識されたので、意識せずとも仲良くしたいと思うことができ、実際コミュニケーションしていた。しかし、1年たつと、MBA学生としての共通性みたいなところが見えてくるようになり、国籍は違うしコミュニケーションもいまだ完璧ではないにせよ、徐々にウチの人と思えるようになり、彼らと共通言語(含むMBA用語)を使ってつるむくらいなら学外の人の話を聞きたいと思うようになり、つるむ相手が学外に拡散するようになってきた。最近は、国籍は違えど目線は同質的なMBA学生とばかり喋るよりも、日本人であったとしても学外にいる人と話した方が、世界の広がりあるいはもっとミクロに言えば自分にとっての刺激が大きそうな気がしている。てかMBAは特に、前提とする共通言語のようなものが多過ぎる気がして、同級生と話しているととてもComfortableなのだが、それだけいっそう、ここに染まることに対する危惧のような感覚が非常に強い。
・今もまた、学外に友人が増えるにつれ、学内とくに日本人同級生とかとの関係構築は興味がわかずすっかりさぼってしまっている。でも、おそらく日本に帰ってしばらくすると、彼らのことを恋しく思ったりするのだろう。我ながら勝手なものだ。
この傾向を意識しはじめたのは会社に入ってすぐの頃で、その頃は自分がその勤務先にフィット感を感じていないことが原因なのかなと思っていた(なのでおそらくすぐやめるのだろうなぁと予想していた)。しかし、結婚とかもあったので辞めずにぐずぐずしていたら幸いなことに出向や留学の機会があったので疑似転職ができたわけだが、その疑似転職の結果、出向先でも留学先でも同様の「ウチの友人に対する興味薄」「ソトの友人に対する渇望」が自身の中から発生している。
たぶん、単に自分がコミュニケーション能力が低いだけとかそういう話なんだと思う。関係深耕力に欠けていることからソトの友人との薄い付き合いをウチの友人との濃い付き合いより好むという話なんじゃないかとなんとなく思っているところではある。実際、ソトの友人の多くはかつてのウチの友人であることが多い。つまり、ウチの友人との関係構築をおろそかにしている結果、本来は100人のソトの友人と関われたところ、50人のソトの友人としか関われていないという懸念はある(実際、元の職場や同期でも、接点が殆どなくなってしまった人がちらほら。。主因は自分のコミュニケーション怠慢だと思われる)。これまで関係した全ての人との関係を暖めておきたいというわけではないのだが、無駄に冷やしている関係もあるように思われて、多少勿体ないと思うところはある。
でも、まあそれはそれとして、どうもやっぱり自分には、ひとたび「この人は身内」と思ってしまうと、その人との関係構築に関心が薄れてしまう傾向がある。たぶんこれは自分にとって短所なのだろうと思うので意識しておきたい。それに、ソトの友人って言ったって、積極的なネットワーキングとかを好まない自分の性分を考えると、ソトといってもそこまで広がりがあるわけでもないし。
Friday, February 24, 2012
Myths and Realities in MBA
1. MBAに来ると英語ペラペラになる
ダウト。上達あるいは場馴れはするが、少なくともカタカナ英語が滑らかになることは殆どなさそう。カタカナをカタカナなりに速く喋れるようになる程度か。ただし、しゃべりの機会は他の留学先(エンジニアリング、パブリック、ロー等)と比べると多いようで、留学生コミュニティ内では内弁慶することはできるのかな、という印象。
他方、読み書きについては手前味噌ながらかなり成長している感じ。これは素直に宿題等が馬鹿みたいに多かったおかげであろう。
2. MBAに来るとロケットサイエンティストになれる
ダウト。知識それ自体だけでビジネスエリアで差別化を図りたいのであれば、どこぞのPhDにいくか、金融工学とかマーケティングのピンポイントの修士が適切であろう。MBAはいわば「喋りやスケジュール管理も含めた総力戦」といった感じで、全体的に実力の底上げ感は得られるが、「ファイナンスの鬼」とかには多分なれないような。
3. MBAに来ることで自分の欠点が抜本的に改善される
怪しい。自分自身いろいろと問題を抱えていて、MBAをきっかけに改善されるよう努力を試みたりもしているが、お釈迦様の掌を飛び回る孫悟空気分こそ味わえるが、欠点を克服して生まれ変われるかというとちょっとそこまでではなさそう。人によっては、この短所改善を最優先して2年間ひたすらに取りくめば改善するのかもしれない。
他方、短所を客観的に見つめ、その短所とどう折り合いをつけていくか・・・という態度を身に着けることであれば、わりとできる気がする。日々バタバタするので自分の短所が何かけっこう露呈して、否が応でもそれと向き合っていく必要に迫られるので。
4. MBAの学生は皆すごい
見る角度にもよるが、結構みな等身大な気がする。中にはウンか国語喋れて起業経験があって。。みたいなすごいやつもいるが、殆どの人は似たり寄ったりの悩める若者といった感じ。また、ある側面においては普通の社会人より劣る部分もあり、例えば約束を守るとか、遅刻しないとか、色々なところがオロソカになっている学生は多い(忙殺されるあまり、また上司がおらず首にならないから、というあたりが原因か)。なので、2年間、「あ、意外と皆似たようなものだ」という安堵もできる(もちろん、結構な回数、日本では味わわないような劣等感を感じたりもするのだが)
5. MBAは忙しくて死ねる
解釈次第だと思う。たとえば「毎週金曜日も休みであり、授業は学期で4つ」とだけ聞けば、仕事と比べて楽勝じゃないかと言うこともできると思う。仕事のようなプレッシャーも少ないし。
ただ、いくつか多忙な雰囲気を出してくれる要素があって、グループ課題とそのためのミーティング(と揉め事)、無尽蔵にある各種イベント、英語なので日本語の1.3倍くらいかかる所要時間・・・など。なので、結局のところ週末も空き時間は基本的に何か読んだり書いたりすることになり、心の余裕はそれほどない。
なので、たとえばMBA留学していない人に対して、自分から「俺はマジ忙しかった」と威張るのはためらわれるのだが、他のMBA学生を「あいつら結局のところ暇なんだよ」と馬鹿にすることはちょっとできない。
あと、物事に優先順位を付け、劣後的なものをバッサバッサと切る癖がつく(ついてしまう)人が多く、うっかり優先順位を低く見られてしまうと返事も貰えなくなったりとか。
また何か思いつけば書くが、とりあえず5つほど。。
Tuesday, February 14, 2012
人のストーリーに乗る
数学やファイナンスでも、なにかの打ち合わせでもいい。わざわざ教科書の作者やら打ち合わせでの説明者やらが、当方によかれと思いロジックを構築し、少なくともその人にとってはわかりやすいロジックで説明してくれる。だが、自分は得てして、その人のロジックに素直に乗ることを本能的に良しとせず、自分なりに咀嚼しようとする傾向があることを感じている。
具体的には、頻繁に「これはこういう理解でいいですか」と自分の言葉に置換した上で念押しの質問をしたり、ノートやブログなどに頭の整理と称して得た情報を自分なりに再配置したりしているやつ。
いつこのような思考回路が自分にしみついたのかはよくわからない。おそらく過去の教育のたまものなのだろう。これは時には役に立つ。自分の頭で再構築することでようやくすっきりすることは少なくない。
しかし、世の中の現象の全てがそこまでややこしいわけではない。簡単な話であれば、おとなしく相手のロジック通りに理解しようとしても理解できてしまうだろう。そんなときは、一々自分の頭で再構築しようとせず、するっと相手の言ったことを相手の言った通りに理解すべきなのではないか。
自分なりに再構築するのは時間もかかるし、相手にしてみれば「自分の説明を、微妙に曲解している」みたいに感じられるかもしれない。自分の言葉に換言するとどうしてもニュアンスレベルで元の発言とは差異が出てしまう。発言主にしてみれば、わざわざ自分が考え抜いた上で使った言葉を勝手に換言とか言いつつゆがめられたらたまったものではないと思っても仕方がないのかもしれない。自分の経験に照らすと、「それってこういうことですよね」と聞かれて、ニュアンスレベルまで含めて「そうそう」と思えることって案外少ない。実際のところは「うーん、ちょっと違うけど、まあ大体合ってる」という妥協の結果「そうそう」と言っていることが多い。この「再構築→換言→念押し」みたいな一連のやり取り、ヤヤコシイことをきっちり理解するには有益だが、なくてもいいならないにこしたことはないのではないか...というのが問題意識。そして自分は必要以上に再構築しようとする傾向があるなぁというのが問題。
なんというか、マニュアルに自分で再構築しながら理解しようとする態度も全否定されるべきでもないが、状況によってはもっとオートマチックに相手の話を相手が話す通りにすっと理解しようとする態度のようなものが自分にはもう少しあってもいいのかな、とふと感じている。それとも、相手の話を相手が話した通りに理解するのも、それはそれでハイレベルなスキルで、自分はその能力が十分でないという話なのかもしれないが。