最近感じたこといくつか。といってもおそらく同じこと何回も書いてる気がするが。。
● 他人や社会の問題について関心をもったり批評すること自体は悪くはないが、その落としどころは留意しないとまずい。その思考のベクトルを「他人を変える」「社会を変える」という方向に向けるのはあまり生産的ではない。
そういった思索を意味あるものにできるとすれば、それは、「その思索から自分がどう変われるか」「そういった社会の動きに自分がどう対応するか」という、自分レベルに落とし込むことで初めて意味が出るのではなかろうか。
他人や社会というのは観察・対応するものであり、変える対象として見てしまうと人生がしんどくなるように思われる。もちろん、ときには変えることができるかもしれないし、変えることで多かれ少なかれ自己満足できるのかもしれないけど。
※多分、この発想は、自分の根底にあるものを改めて掘り起こしただけだと思う。このブログだって、誰かに影響を与えたいと言う意図はなく、単に「王様の耳はロバの耳」と叫ぶための穴・言いたいことを言ってすっきりするための掃き溜めという意図しかない。
● と、偉そうなことをいったそばから、悪口シリーズ
・ある程度勉強している(ことになっている)社会人や留学生なら、FBやTWに、どう考えてもイタいブログ記事とかをシェアするのは恥ずかしいぞ...
特にMBAで経済学をかじったくらいの人が陥りがちな罠。プロ筋で「痛い人」と言う評価が定着してしまっている人の言説(しかも得てしてブログ)を「いや本当に考えさせられます」とかコメントを添えつつFBにポスト。
自分が仮に何か意見を主張したいのなら、意見の含まれていない報道記事を張り付けた上で、自ら議論を展開するだろう。人の意見ーしかもトンデモーに便乗して「いやーこれは参考になります」とか、ちょっと辛い。
・「日本人は議論のとき、ロジックで勝負できず感情的になったり人格批判したりする」と言いつつ特定の誰か(や、そのロジック)を批判する向きがあるが、そういう人に限って議論のときの言い方が稚拙・乱暴でIrritatingであったり、下手すると感情的になっていたりする。
ロジックで純粋に勝負したいのであれば、普段よりずっと丁寧に言葉を選ぶべきだと思う。確かに留学先ではロジックが尊重されている気がするが、それは前提として、皆がディスカッションのときはきちんと言葉を選んで感情的な言い合いになることを回避しているからだと思う。感情に任せて好き放題自分の理屈をまくし立てた上で「あいつはすぐ感情的になる」って、それどんな罠だよ..と思う。
相手が感情的になるとしたら、それは相手が議論慣れしていないからというより、自分の物の言い方が悪いからだと思った方が良いと思う(自分の過去の経験に照らしてもそう思う)。相手を苛立たせておきながら「これだから日本人は...」という人を見て、わがふり直したいとふと感じた。
・先日友人と話していて、仮説が確信に変わりつつあるのだが、「なまじ頭がいいから、あるいは中途半端に頭がいいから、自説に閉じこもり外部から素直に学ぶことができない症候群」というものが存在すると思われる。
自己、あるいは自身の知識に対して過度の自信があるとそうなる。あらゆることについて「正解はオレ」状態となり、人が何を言っても聞き入れない。場合によっては、認知バイアスを発動して人の発言を自分の都合の良いように歪曲して自己正当化の材料に使う。
例えば留学生を例にすると、学びに来たのか、或いは「自分がイケてるという仮説がやはり正しかった」と妄想するために来ているのかよくわからない人とか。なまじ頭がいいばかりに、ぱっと「俺にとっての正解」みたいなものが頭に浮かんでしまい、基本的姿勢として、それ以外の意見を否定的に捉えてしまう、みたいな感じ。とりあえず愚直に学ぶことが出来ている人と、そうでない人で、この2年間は大きく意義が異なってくるのだろうと思う。
という、色々と罵詈雑言。
卒業後、この罵詈雑言がブーメランとなり自分の至らなさを浮き立たせることになるのか、あるいは自分がこういった問題に自覚的になったことでよりよい人間になることができるのか。ある意味、自分についてリスクを取った気分である。。