以前、「忖度するのは、いいことだけど、場合によっては慮らないのもいいのでは」ということを書いたが、それに関する補足。
・忖度すること、相手のことを慮って遠慮したり妥協したりやりたいことを我慢したりすること。個人の倫理的指針としては、忖度することは非常に素晴らしいことであると思う
・ただ、合成の誤謬じゃないけれども、皆が忖度しちゃうと、グループで何かものごとを決めるときにベストな結果になる可能性が低下するかもしれないと思っている。
(ありがちな展開1)
男3人で卒業旅行に行こうとしている大学生。本当は皆バイトしたので金もあって、ガツンとハワイに行きたいのだが
Aさん:(俺以外のBとCはそんなに金もってなさそうだしなぁ..→)「京都とかにしとく?」
Bさん:(ハワイが良いけど、Aは貧乏そうだし、あいつが京都行きたいっていうのなら...→)「そうだね、京都いいね」
Cさん:(ハワイがいいけど...以下同様→)「そうだね京都にしようか」
と、結局誰もハワイと言い出すことなく京都に旅行することに。
皆が相手のことを必要以上に慮ってしまうと、このように、「誰か一人でも自己主張できていれば到達できたであろう、よりよい結末」にたどり着けずに終わることがありうる。
(ありがちな展開2)
女3人の卒業旅行。AさんとBさんとCさんはハワイが良いと思っているが、3人の意見が一致していることには気づいていない。Dさんは別府に行きたい。
Dさん:「私、別府で地獄めぐりしたい!」
Aさん:(うーん、ハワイがいいけど、Dがそういっているのなら...それに、自分がハワイを希望しても、BとCがどう思っているかわからないし..→)「そうだね、別府もいいかもね」
と、結局別府になる。このように、グループ内に忖度する人と忖度しない人がいると、結末は単純に忖度しない人、声の大きな人の主張がさしたる批判検討もなく素通りしてしまったりする。
なので、グループで何か決めようと言うときとかには、「敢えて相手のことを慮らない」という発想がワークするのではないかと思っている。上の例1でも例2でも、全員が自己主張をしっかりできていれば、行先はちゃんとハワイになるのだ。ハワイと京都や別府を分けるものは、我々日本人が大好きな「他人への配慮」なのである。
留学してチームで何かやるとき、最初は外国人同級生(の一部)の自己主張の強さに驚く。なぜこいつには自己犠牲や相手への配慮という発想が欠落しているのか..と。ただ、その一方で、「そういうやつがチームにいた結果チームないで熱い議論が起こると最終的な結果が案外良くなる」という経験も少なからずあった。というか、メンバー同士自己主張をガンガンぶつけ合わないミーティングの大半は、その場は丸く収まるが結果は悪かったように思う。
相手への配慮は国際的にも尊敬される日本人の貴重な傾向のひとつであるのはおそらく間違いないと思う。しかし、あらゆる局面において他人を尊重することが正しいとも限らないというのが、この米国留学で自分が体得したことの一つ。チームとして最良の結果を得るためには、ときに正面切ってメンバー全員で言いたいことをぶつけ合うという忖度とは正反対のプロセスが役に立つこともあるのではないだろうか。
「相手に迷惑がかかるから」と思ってやめることで落としどころを見つけるのもいいけれど、たまには、
「相手に迷惑がかかるけど、敢えて自分のやりたいことをやらせてもらう」と全員が自己主張をぶつけ合う形で落としどころを探る。大変ではあるが、試す価値のあるものじゃないかしらと思っている。