Tuesday, May 15, 2012

幸せとは

今日は不動産の授業。事前課題がハリウッドの開発案件で、その登場人物その人がゲストスピーカーとして登場するというなかなか面白い展開。すぐ近所のセンチュリーシティでファンドをやっているとのことであった。

が、このおっさん、どうやら忙しかったようで、アメリカ人がよくやる「関係ない話を喋り倒すことでなんとなく発表したような雰囲気を作る」という技でごまかしてきた。案件の話はごく薄く話すにとどまり、ケースを通じて行った細かい計算や考え方については一切カバーせず。

その点においてこのおっちゃんはどちらかというとハズレだったのだが、彼がごまかしのために行った各種雑談の中に面白い話があった。聞いている最中は「関係ない話でごまかそうとしやがって」と苛立っていたので虚心に聞くことができなかったのだが、少し頭も冷えたので、せっかくなのでメモしておこうと思う


■ 幸せの4構成要素

そのオッサンが自身の経験や他の成功者との会話を通じて会得したところによると、幸せというものは主に4つから成るそうだ。

1: Wealth. 金や財産が全てではないが、金があると幸せになることが多い。

2: Love. 家族や友人に愛されているという実感は、あなたを幸せにする。なので、善きことをしたり、誠実に振る舞うのは、愛されるための手段として合理的

3: Being provided with opportunity. 成功につながるようなチャンスに恵まれていると実感できることは幸せに直結する。

4: Power to change someone else. 最後はこれだそうだ。他人の人生や心を動かすような大きなインパクトを与えることができるという実感は、筆舌に尽くしがたい幸福感を与えるとのこと。このオッサンはこの点に気付いてからは、自己充足の手段として、教育活動やコミュニティ活動の振興のため日々活動をしているとのことであった。

(小生感想)
自分もこれまでに幸せについて考えてみたことがあったが、これまでの自分の整理は「金」「愛情友情」「知的好奇心の充足・成長機会の充実」というものだった。これを自分主体な言い方から目的主体の言い方に変えれば、自分の整理は概ね上記1~3と同じものになるのかもしれない。稼ぎが良くて、妻子や友人に恵まれた環境のなか、「これからも、でっかいこと・面白いことができそう」という希望を抱き続けることができている状態。たしかに幸せだ。

しかし、4については、今日話を聞くまで意識せずにいたが、ちくしょう、これはその通りだ。取引先が自分の提案で態度を改めたとき。自分のツイートの後、他の人が明らかに自分の発言を読んで影響を受けたと思われるようなツイートをし始めたとき。etc. 自分の行動の結果他人が変わるというのは、たしかにかなりの、いや至上の快楽であるのかもしれない。

だからこそ人は権力を求めたり、政治家を目指したりするのかもしれない。だからこそ人は慈善活動やコミュニティ活動を行い恵まれない人々の行動を変えようとするのかもしれない(今日のおっさんはこれ)。だからこそ人は他社の高待遇を捨てて官庁に入り、法律を書いたりすることで人々の行動が変わるのを見ようとするのかもしれない。

これって、うまくやれば、モデル化できるのではないだろうか?現行の経済学のスキームでは、雇用創出とか環境改善とか貧困撲滅というのは単なるオマケみたいな扱いで、モデル上の合理的個人は基本的には個人利得の最大化を純粋に追及する設定だ。しかし、「他人を変えるという高次の欲求を満たす手段としての環境改善活動や貧困撲滅活動」というのは、合理的個人というモデルの範疇にうまいこと含めることができたりしないものだろうか。

今日のおっちゃんなんか、自分が幸せになるために教育問題に取り組んでいると言いきっていた。一般的な考え方である「目的→貧困撲滅、手段→稼ぐ」みたいな発想よりも、「目的→自己効用の最大化、手段→慈善活動、手段のためのメタ手段→稼ぐ」みたいな発想の方が自然と言うこともできないだろうか?

自分の周囲に偶然すばらしい人が多過ぎるからかもしれないが、明らかに、こういった「大きな問題」に意欲的な人は少なくない。これまでは自分はそういう人たちを率直に行ってしまえば「綺麗事いってないで、もっと自分に素直になれよ」とか思っていた。しかし、もしかすると、彼らも徹頭徹尾自己中心主義で、自己充足のための手段としてそういった「大きな問題」に取り組んでいるのかもしれない。

換言すると

これまでの自分の認識:貧困解決や環境問題といったテーマ自体が人生の目的にはなりえない。そういうこと言ってる奴は、そういうこと言ってる自分に酔ってるだけだ。なので、大きなテーマを掲げることは自己顕示欲の表象に過ぎずキモい。もちろん、ごくたまに、純粋に大きなテーマを目的として取り組める人がいるのは知っているし尊敬しているが、それは例外であり、99%の人は「大きなことを言って酔っている俺」にしかなれない。そんなことなら、徹底的に他人を変えることを諦めて、自己改善を探求した方がよいのではないか

微調整された自分の認識:他人を変えることが幸せの一要素であるならば、その手段として、多数の人の行動が変わるような「大きなテーマ」に取り組むのはある意味合理的であろう。大きなテーマを掲げるのは自己顕示欲というよりは「他人を変えたい」という欲望の表象であり、「へっへー自己中野郎が」と馬鹿にすると言うより、むしろ「もうそんな高次の欲求にお着きしたんですか」と称賛していい性質のものであるのかもしれない。

と言った感じ。大きなテーマを掲げている人を必ずしも「自分のことが可愛くて仕方ないナルシストが自己愛を変形した上で他人にふりまいている」とネガティブに評価せず、「金や愛といった初級は既にクリアして、他人を変える快感に気付き、それを愚直に追及している上級者」とポジティブに評価した方がいいのかもしれないということ。

※ あるいは、自分がMBAに来てやや考えを強めた「他人は変えられない」という発想は、「他人を変えるようなことは、俺にはできそうにない」という絶望感の裏返しが無意識に表れたものなのかもしれない、、、と少し冷や汗。だとすると、自分には、安西先生の「諦めたらそこで試合終了」という言葉を喝代わりに送るべきなのかもしれない...「他人を変えることができたらウヒョヒョーイだけど、多くの場合それは簡単ではないよね」くらいの中庸な感じに認識を改めておいてもよいのかもしれない。。

最後に引用

美食を芸術の域にまで高める条件は、それは唯一、人の心を感動させる事だ。 そして人の心を感動させる事が出来るのは人の心だけなのだ。材料や技術だけでは駄目だ!(海原雄山)