自分の考え方が留学のおかげで色々変わったかもしれないという話
(留学のおかげなのか、もともと自分の中にあった傾向が留学により顕在化先鋭化しただけなのかもしれないけど)
1. 関心のウエイトが、社会から個人へ
日本経済とか、社会とか、そういったものについて床屋談義するのが留学前はわりと好きであった。
しかし、特にCockrumという爺さんのアントレファイナンスで「規制とかマクロ環境とかに文句言うのは対応できてないことを示すだけ。虚心に状況を理解し、対応する。それが経営者としてお前がすべきことの全てだ。外部環境には逆らうな」という話を繰り返し言われた結果、だいぶ考え方がそっち方向に変わった気がする。
日本経済について案ずる暇があれば、ただひたすらに自分やその周辺のミクロなことについて考えていたい、そう思うようになっている。
※ あと、「そもそも日本って何よ、日本人が創設したメーカーの利益と日本国民の利益とか利益相反してね?」といった感じで、ナイーブに日本を論じたりすることの危険性のようなものも気にかかるようになってきている。なので尚更、日本とか社会について無定義に議論することをためらってしまう。
※ ただし、だからといって外部環境について無知であったり無関心であって良いということではない。外部環境を理解しようという態度は間違いなく必要である
2. ネガ/ポジ
どんなものにもポジティブな側面とネガティブな側面がある。そこで、いちいちポジティブな側面を見てやるのと、いちいちネガティブな側面を掘り起こすのでは、掘り起こす自分のメンタリティも指摘される相手のメンタリティもずいぶん変わってくる。
特にコミュニケーションの授業等で「まずはポジティブな側面を拾ってみよう」という指導を受けたこともあるのだが、最近では、「特に必要なければ、ポジティブな側面を掘り起こしておけばよくね?」という考え方になりつつある。
ネガティブな指摘って、①自分の憂さ晴らし ②相手に対する指導・示唆をどうしてもしなければならない ってときくらいしか必要な気がしている。つまり、親友・家族・信頼する上司部下等以外に対してネガティブな苦言を呈する必要は全くないと思う。憂さ晴らしは他の手段でやったほうが多分いいと思う。
ということで、指導すべき後輩とか、自分の娘とか以外には、教育的指導の必要もないので極力ポジティブな側面だけ見てやるようにしたいと思っている。別に相手のためじゃなくて、そうすることで自分のストレスが減らせるので。あくまで自分本位。
3. 忖度のオンとオフ
日本では、よく「相手の立場に立って考えろ」という発想でものを考えていた。
それはそれで素晴らしい発想だと思うしこれを捨てる気はないのだが、アメリカ的な「相手のことを気に掛けるのは場合によっては失礼であり、ただシンプルに自分の立場からものを言う」という発想も同じくらい価値があるのではないかと思うようになっている。
これを頼むと相手が困惑するんじゃないだろうか...とか、こういう言い方すると相手が嫌がるかな...とか。
最近思うのは、あえてそういう「相手の心中を忖度する」ことをやめてみて、100%自分の立場から自分の望むことだけを言いっぱなしてしまう方が良いときというのもあるのではないだろうかということ。
てか、相手だって立派な大人なんだから、嫌なことを言われたら嫌って言えるし、やりたくないことを頼まれたら拒否できるはずなのだ。下手に遠慮して頼むべきことを頼まず後悔するくらいなら、とりあえず頼んでみたほうが両者にとってハッピーなこともありうる。遠慮して最善を目指さないよりは、あえて遠慮をしないで最善を追及する方がいいときだってあるのではないだろうか。
あるいは、ケンカのとき。これはFxxxなクラスメートとの喧嘩・摩擦等を通じて学んだものだが、"Why can't you do that?"とYouの文で批判するのではなく、"I am disappointed."とIを使って話す方がよいような感触をもっている。「お前はどうして...」という言い方で言ってしまうと、どうしても余計なお世話感が出てしまい、相手に不必要な不快感を与えてしまう。ここはシンプルに「俺は不快だ」と自分がどう思ったかだけ主張する方が、場合によっては思いがストレートに伝わる(気がしている)。
いまだ答えは出ていないのだが、正解は「いつも忖度する」というよりは「必要に応じて忖度のオンとオフを使い分ける」と言う感じなのではないかと思うようになっている。
4. とにかく口より手を動かす
不平不満は、状況を変えられない無力性や状況に対応できていない硬直性の裏返し。不平不満を言う暇があれば社会を変えるなり状況に対応するなりするべきだと思っている。
例:会社の給料が悪いと居酒屋で文句言うのではなく、「会社の給料が悪いので、いいところに転職しました」と言えるようにする
あるいは、具体的なアクションの伴っていない願望はただの妄想であり、ヨタ話以上の価値をもたないという思いが強くなっている。少なくとも自分がなにか願望を述べるときは、
・それが達成困難なもので、「できればいいなあ(でも無理)」という仮定法で述べていることを意識する
・達成可能性があるなら、願望と、その達成のために既に着手しているアクションをセットで述べる
のいずれかの踏み込みが必要なのかなと思うようになっている。
もちろん不平不満だって願望だって否定されるものではない。人間なのである程度言わないとストレスもたまる。
ヨタ話としての不平不満はまったく否定しない。
ただ、言いっぱなしの格好悪さというものが、留学してからつと気持ち悪くなってきているところ。。