・生徒会メンバーのG君が「XXXというイベントをしたいと思っており、関心がある人は連絡くれ」というメールをしてきた
・自分は関心がなかったのでスルーしたのだが、
・とある学生が返信で「XXXというイベントはナンセンスではないか」という議論を投げかけ、さらに一人がナンセンス論に同調した(やり取りは全て学年全体に届いている)
・その後他の生徒会メンバーから「まあまあ、そういう考え方もあるかもしれんけど、ナンセンスということもないだろう、俺は関心あるよ」というやんわりとした反論メールが来て、
・最後に、言いだしっぺのG君。温厚な人なのだがどうも思うところがあったようで厳しい反撃:「自分は、そのイベントに関心があるか聞いているだけで、そのイベントについて哲学論争をするつもりはない。興味がないなら無視してくれればそれで十分で、興味がある他の人の邪魔はしなくてもいいだろうに(Let's not try to rain on someone else's parade)」。
色々論点はあろうが(自由意見を言っただけでそこまで怒らなくても、、、等)、自分は本件それ自体というよりは、G君の「Don't rain on other's parade」という発想にわりと考えさせられた。
政治や思想に不勉強なので正しいかどうか全く不明だが、自分はこの発言からG君の強いリベラリズムを感じた。自分にとってのリベラルとは「俺はあなたの邪魔をしないので、あなたも俺に干渉しないでくれ」というもの。自分の中で対立的な概念は共和主義・保守主義といったもので、「公共の利益・『正義』・その他各種rationaleがあるのであれば、俺はあなたに干渉しうる」といったイメージ。
アメリカに来て、あるいは年を取ってだんだん自覚的になってきたが、自分は上記の対立軸で言うとややリベラル寄りであるように感じている。
・他人のことが気にならないわけではないが、それ以上に自分のことを邪魔してほしくないので他人に口を挟むのを避けたり、
・自身の行動あるいは考え方の修正・変更を求めてくるような相手に対して、相手もびっくりの早い段階で声を荒げてしまったり(自分がかっとする理由の8割は「干渉はやめてくれ」で説明できてしまう気がする)
だからかわからないが、留学前に新人研修を受け持ったときは、最初自分が彼らに助言しているのか干渉しているのかわからず混乱し、やっていて気持ち悪くて仕方なくなってしまった。途中から、意識無意識に、演技するというか「教える自分」みたいな言わば別人格を使うことで気持ち悪さをバランスさせていた気がする。そして今では、一部言動を通じ、助言を超えて干渉をしてしまっていたような気がしており反省している。
あるいは、留学してから一度だけ自分でもわかるくらい激昂してしまったことがあったのだが、それを今思い起こすと、相手が「自分にはお前の行動を変える権利がある」と明示的に主張したことが一番カチンと来た。自分の奉じるリベラリズムが、万人が当然に共有する前提であるかのような錯覚を持ってしまっていたので、相手が当然であるかのごとく干渉してきたときにカッとしてしまったのだ(まあでも、その経験以来、リベラリズムは複数ある思想の一つに過ぎないと自覚することができたのでその口論を今では感謝しているが)。
といいつつ自分は、完全にはその思想を実践できておらず情けなさを感じ続けている。
・人に干渉するなと言いつつもついつい他人の行動に口を挟んでしまうこともあるし、
・本人に言わずとも、ブログや家族とかに「あいつがさぁ、、、」と愚痴を言うのは日常だし
・そこまで深く考えているわけではないが、徴兵制やら各種法制度とか、そういったものを無制限に嫌っているわけではなく、むしろ最低限のルールは社会が社会であるための潤滑油として必要だと思っていたり
とか。
つまり、自分は「いい意味でのリベラル」でありたいと思い他人にはそれを多かれ少なかれ要求しているくせに、自分自身についてはその原則を完全には適用できていない大甘野郎であると自覚している。
とりわけ、自分が選んだ(あるいは結果的に進むことになった)道とは別の道に進む人のことを腐すことで自身を正当化させたいというしょうもない衝動がときどき増大して、明示的に他人の行動を腐してしまうことが多い。進路とか、ライフスタイルとか、果ては着る服のブランドとか。もう自分がポジションを取っているものであれば何でも。
そんなしょうもない人間であると最近問題意識を感じ続けていたので、G君の「他人の足まで引っ張らなくてもいいじゃないか」という発言はまるで自分への言葉であるかのごとく刺さってしまった。自身の内奥にリベラリズムを感じているのであれば、ある程度、その原則を貫く必要がある。すなわち、干渉が嫌なら、他人のパレードに雨を降らせるようなことをしてはならないのだ。
とはいえ自分のしょうもない性質は一朝一夕では改善しないだろう。長期的には自身のリベラリズムを徹底させる習慣を形成するのが解決策であろうが、短期的にはどうしたものか。自分がいま短期的な(もしかしたら長期的にも)ひとつの解決策になりうると感じているものがいくつかあり、その一つが(匿名での、あるいは非公開での)ネット発信。つまり、ブログやツイッターにネガポジ含め感情をぶつけるという行為もある程度は正当化されるのではないか、というのが今日の結論のひとつ。公人として発言していくのであれば、その発言に一貫性が求められるし一言一言にマーケティング要素を込める必要性も出てくるが、その点、匿名でやっている今のブログというものは、今まではあまり自覚的ではなかったが、自身の精神的均衡を保つのにそこそこ役立っているのかもしれない。一言で言うなら、「人への愚痴や文句、止められないならブログやツイッターなら構わないから、その分対人では慎め」と言う感じだろうか。ニュートラルな発想ではないかもしれないがそんなことをG君のメールを契機にふと思った。