今週末はわりと忙しかった。
▼金曜日は、VC/PEの教授が取り仕切っている、当校でのPEセミナー。学者・実務家が総勢50人ほど集まり発表を聞いたり情報交換したり。学生も数人参加でき、自分を含めて7人くらいが参加していたように思う。
他校の教授によるPE関連分野に関する論文やワーキングペーパーの発表や、これまでにGPファンドの組成になん百回と関与したという剛腕弁護士とGPのプリンシパルによる業界パネルディスカッションとか。
学者の発表も、実務家の発表も、ときにtoo academicだったり(推計方法に関するヤヤコシイ方法論に関する議論とか)too practicalだったり(業界用語をガンガン飛ばすので時に置いてきぼり)でたまに苦労したが、全体的には会に共有されている問題意識や発表内容は自身の関心にもフィットしていて、いい感じでストレッチ&知的刺激を得られる機会となった。
※当校の教授も数人いたのだが、ゲストスピーカーにかなり積極的に質問・コメント・批判をしていてその激しさにびっくり。言い方はマイルドなので場がとげとげしくなることはないのだが、聞いていると結構辛辣な批判をしていて驚く。ゲストなんだからお手柔らかに扱うものだと思っていたので。。。
個人的には、MBAで一番おもしろいのはこの手のセミナー関係かもしれない。
▼土曜日は芝刈り。引き続き不調だが、有名なStrawberry Firmというところでプレーできたのは良かった。
▼日曜日はとあるところのお手伝いとして、トーランスで大学生とお喋り。あまり準備もせずにいったのだが、それが奏功してか(?)、自分が潜在的に大事だと思っていることが「その場で考えながら喋る」と言う作業を通じて多少整理されたので非常に有難い機会となった。
おいおい練り直したうえで丁寧なメモでも書きたいところだが、今日はとりあえず備忘のための簡単なメモだけ:
(1) ひとつひとつの出来事や行動を、あるがままに捉えるか、あるいは「あるべきところからこれだけ乖離している」と捉えるか。
就職に関連する話をしていたとき、自分の方からは「とりあえず身近でAvailableな人に会い、その経験・刺激をベースとして企業研究やら業界研究やらを進めていく」、あるいは「とりあえず一歩踏み出してみる」という方法論を提示してみたところ、参加者から、「それだと、あなたの決断は、たまたま最初に会った人の勤務先や個性にかなり引きずられることにならないか?ベストな決断からずれる可能性がないか?」というコメントを貰った。
それを聞いて、まずは「ははぁ、全くその通りでございます。。」と思ったのだが、その後ちょっと別の考えが自身の内奥から出てきて、その学生には以下のように答えた:「ベストな結果というものなど、結局のところ存在しないのではないか?少なくとも自分は、その行動がべストだったかどうかという発想をあまりしておらず、ケセラセラな感じで人生を捉えている気がする。」
最初に会った人が「当たり」だったか「はずれ」だったかはあまり自分には気にならず、結果としてたどり着いた場所(勤務先とか、出向先とか、結婚相手とか、留学先とか)を良いとか悪いとかというよりはas it isで捉えて虚心に楽しむ...と言う感じだろうか。整理できていないが、
・結果は、獲得するものではなく、大きな力(?)によりもたらされるもので、最大限の努力を求める点厄介ではあるが、最大限の努力をしたところで結局は運。
・ただし、最大限の努力をしないとトラブルも
・「あるべき到達地点」があってそこから自分の現状が乖離しているかどうかとか、何か大きな目標を目指すという生き方は、少なくとも自分にはフィットしていない。
・自分はギャッツビーはないので、そのような大きな夢に向かって生きていくというよりは、目の前の人生を全力で生きた結果目の前に現れるなにものかを虚心に受け入れるmicroな人生を好んでいる気がする
というあたりの発想が自分の内奥にあるような気がした。
(2) 失敗を愛するのか、嫌うのか。
学生がインターンや仕事に関する心構えに関する質問をした際に、まったく答えが浮かばなかったのだが、そのとき即興で出てきたのが「中途半端にそつなくやるくらいなら、むしろ失敗しといた方がベター」という言葉。
自分で考える限りでは、おそらくこの発想は、もともとうっすらあったものがMBAの教育(洗脳?)の結果強化されたものであるように感じられる。
・その仕事なりインターンの目的が、その仕事それ自体を確実に成功させることなのか、そこで得た経験を成長の糧とすることなのか明確に分けるべきで、
・仮に成功それ自体が目的なら取り繕っても嘘ついてでも成功(と他人が認識するレベルのアウトプット)をもたらすべきだが、かりに経験が目的なら、むしろ大胆に失敗してしまった方がベター。
・中途半端に成功してしまうと、慢心してしまい反省できない。他人もそこにあった問題を看過してしまう。
・失敗して、怒られたり恥をかいたりしたら、嫌でも状況を見つめ直すことになる。友人家族に愚痴を言うと言う形であったり、反省文を上司あるいはブログに書くと言う形であったり。その反省と、それによりもたらされる反省の深化、今後の行動に対する指針といったものは、よほどできた人間でない限りは明確に失敗しないと獲得が難しい。
おそらく、この発想は、30歳前後の貴重な時期を、学校という失敗し放題の場所で過ごすことができたからこその発想なのではないかと思う。留学前に職場でいろいろやらかしたときには、ここまでドヤ顔で「失敗を愛しなさい」とは言えなかったと思う。
でも、その一方で、出向したり留学したりすることで職場を外から眺めることで、勤務先あるいは日本がいい意味でちっぽけであることが体感できたのは大きい。職場にこもっているとつい自分中心ワールドに浸ってしまい「これを失敗したら皆に迷惑がかかる」とか思ってしまっていたが、ぶっちゃけその迷惑なんて世の中の大きなうねりの中ではナノレベルの誤差だし、そのミスをカバーすることも組織の業務の一部である( べき)なのだ。むしろ、そのミスのおかげで少なくとも自分は成長して今後その組織により貢献できるし、ミスをカバーしたことでおそらく周囲も成長できるので感謝されてもいいくらいだ(激しく言い過ぎ)。
ところで、自分はこれまで職場でミスを叱られた経験に乏しいのだが、もしかすると過去の上司たちはこういった点(自分がわざわざ海外に来てようやく体得できた観点)を日本にいながらにしてさくっと獲得していたのかもしれない。さらに言えば、自分がここアメリカで獲得したと思い込んでいる各種考え方も、ものすごい大したことのないことかもしれない。でもまあ、(1)に戻るけど、それも含めて人生だよね。