船中で暇つぶしにいろいろぼんやり考えたこと。ものごとを外から見ることと中から見ることについて。
○シアトルでは空港からダウンタウンまで電車で行ったのだが、途中のStadium駅とかその一つ手前の駅までは地上駅で、シアトルのダウンタウンの摩天楼がきれいに見える。そのうちダウンタウンに近づくにつれて駅も地下に入っていく。ダウンタウンの地下駅を出て地上に上ると、あたりはすっかりビル街。先ほどの摩天楼を見渡す感じの風景からは一変、都会の喧騒の中を歩くことになる。
LAのダウンタウンや他の多くの街もそうだが、繁華街部分を遠くから見ているときの見え方と繁華街の中にいるときの見え方は全然違う。外から見ていたときにはまず何よりも摩天楼が目に入るが、ひとたび街に入ってしまうと、通りにあるスタバとかその辺を歩いている女の子とか、気になるものが全く違ってくる。
○この「ひとたび中に入ってみると、見え方が全く違ってくる」という感覚。これ、他の局面でもよくある。
自分が入った高校とか大学も、あるいは就職した会社とか出向で行った役所とかMBAとかも、入る前の評判・神話みたいなものが結構あった。時間が経ち多少剥落したところはあるかもしれないが、依然としてそういった都市伝説的なものは消失はしていないと思う。
そういった世界に入るまでは、どうしてもそういった都市伝説のようなものに影響されてしまっていた。OB訪問などで、ネット等で聞きかじったステレオタイプを披露して「中の人」に心の中で苦笑されたことも多分よくあったのだろう。MBAエッセイなんか、本来は足で稼いだリアルな実態をもとに書くべきだったろうに、一部の学校はそういった浅薄な都市伝説をそのまんま書いてしまってあっさり落ちていたような気もする。
○ひとたびそういった世界に飛び込むことに成功すると、巷で言われているその多くが誇張か嘘かであること、中にいる人は言われているよりもずっと普通だったことなどがわかってくる。その結果、いくつかのメリットのようなものが得られるように思っている。
○その1:入る前はまるで異なる価値観の人の集まりだったり超人の集まりだったりするのではないかとびびっていた自分であるが、いざ入ってしまうと意外とみんな普通ということがわかった。普通の人たちが人よりちょっとだけ努力していたり人よりちょっと要領とか飲みこみがよかったりしているに過ぎないことが多い(もちろん例外的なすごい人もいるが、そういう人ばかりではないということがわかるだけでも大きい。また、すごくないというかしょぼい人も何人かはきちんと存在することもわかるし)。
そのため、そういう新しい世界に飛び込むたびに「意外とみんな普通なんだな」という感想を抱くことが多い。おかげで今では「きっと次の世界も意外とみんな普通なんだろう」と予想はできるのだが、やっぱりいざ実際に入ってみるまでは、その普通さを身をもって体感することはできない。
この「自分が多かれ少なかれ関心を持っていた世界が、自分が思っていたよりずっと普通の人々の集まりであることがわかる」感覚。「入る前には捨てきれずにいた幻想・神話・妄想のようなものが、中に入ることで剥落し、自然体でその世界を見ることができるようになる」感覚。
「人が思ったよりすごくないと感じて安堵する」というあたりちょっとひがみ根性的でイマイチ感もあるが、その安心感のおかげで不必要なびびりが取れてより自然体に行動できるようになる気がしている。具体的には、不必要なコンプレックスから解放されるとか、単にMBAであるというだけでこれまで畏れ多い存在であるかのようにビビっていたあの人を少しだけ身近に感じられるようになったとか、ちょい高めの目標に対しより自然に挑戦できるようになるとか。
○その2:中に入ることで、その現場でなされている細かい取り組みとか、中の人の苦労とかが見えてくる。
役所とかMBAとかは得てして批判を受けがちなものだが、そういった組織がおおむね外の批判を大体において理解していることもわかる(批判を消せていないという点において、誤解の解消をしていないか批判に向き合い切れていないといえるので、彼らが批判を完全に理解できているとまでは言い切れないが)。
結果として、ひとたび中に入ってしまうと、これまでは外からしか見えないことで言いたい放題言うことができていた批判のようなものが言いづらくなってしまう、あるいは誤解であることがわかってきてしまう。新聞やらネットやらで批判のようなものを読んでも、「まあ実態を踏まえると、批判の主旨はわかるけど事はそうも単純じゃないし...」とか大人びたことをつい思うようになってしまう。少なくとも、中の細かい事情を踏まえずに外から見える情報だけをもとになされている表層的な批判なんかはスルーできるようになってくる。
あるいは、逆に、自分が良く知らないことについて、批判が起きているが当事者がうまくレスポンスできていないようなことがある。たとえば政治とか、マスコミ批判とか。こういうことを「中に入ると色々ある」という自分の経験を通じて見ると、「おそらく何かしら事情があるのだろうな」「この批判はもっともらしいが、たぶん細かいが重要な何かを見落としてしまっているのだろう」とか考えるようになってくる。
あまり中の人の気持ちがわかりすぎても、既得権者にチャレンジできなくなってしまうというか同じ穴のむじなになってしまうというか、デメリットがあるとは思う。ただ、いずれにせよ、世の中の組織の殆ど全ては外からは見えないような小さいところにある問題が複雑に絡まりあってもがいているのであって、外から簡単に見て取れるような問題はそういったミクロの問題の結果に過ぎずそれを指摘しても何の進展も得られないことが多いのでは...という視点を持つことができるのはまんざら悪い話ではないと感じている。
○適当に書いていたらとりとめがなくなってきたので無理矢理結論を出してみると、
・中に入ることで初めて分かるものがあって、そういうものがわかるようになる結果、
①アウトサイダーとしては捨てきれない幻想を取り去ることができるようなり、自然体でその組織・世界を見ることができるようになる。その結果、色々メリットがある
→ので、とにかくその世界に入ってみた時点で、その世界に入ったことによりメリットのかなりの割合は達成されるのではないか、という仮説。「入るだけじゃ意味ない」こともないのではないかという話。
②中の苦労とかリアリティのようなものが見え、その組織さらには自分の知らない組織がかかるリアリティのようなものを忖度できるようになってしまう。
→その結果、ものごとを過度に表層的・一刀両断的に切り捨てる批判のようなものに対する批判的精神が鍛えられる。他方、批判を批判的に見ることができるようになってしまう結果、批判に鈍感になってしまったり、現状を過度に肯定してしまうようになったり、現状に問題がないか考えることをやめがちになってしまう懸念が出てくるのでそこはどげんとせんといかん。
→たまたま今自分はMBAにいて、MBAはケースなんか使って「ものごとを単純に見て、なにがしかの分析・結論を出す」という訓練をしている。ここであと一年しっかりやれば「常に現状をベストとせず考え続ける態度」とか「分析の切り口」のようなものは獲得できる(見込み)。これをあわせて、「中の苦労に思いを馳せることができる人でありたい一方、それでもあえて言うべきことは言うことができるような人」みたいな人を落としどころにしたいと思っている。
*こんなことを書いたきっかけは、シアトルの街の眺めが中と外で違ったことと、ツイッター等で色々な人が政治やら日本社会やらを実に気持ち良く切って捨てているのを見て「なんか違うんじゃ」と思ったことから。そういった問題意識に対する回答になっているかかなり疑問だが、船で思ったことを可能な限り丁寧にブログ上に再現してみた次第。またほかのMBA学生やら友人やらと話すことで考えもこなれてくると思うが、とりあえずのたたき台としてだらだらと書いてみた。