Friday, September 30, 2011

部下にとってのリーダーシップ、サラリーマンにとってのアントレプレナーシップ

雑感その2:

○リーダーシップとかアントレプレナーシップとか。最近になって少しではあるがそういった言葉の意味するところ、正確に言うとアメリカ社会において意味されているところ、が体得出来てきた気がする。一言でいうなら、日本で使われる意味よりもはるかに広く緩い使われ方がされているような気がする。

○リーダーシップ。これは「具体的にリーダーであったかどうか」というより、「主体的に考え動いているか否か」「自分の頭で考えることができているか」という意味で使われているように感じられる。あるいは「物事に対して当事者意識を持つことができるか否か」もまたリーダーシップの要素としてカウントしてよいように思われる。どこまで拡張してよいかはまだ確証を持てずにいるが、いずれにせよ、役割としてリーダーをやったかどうかは全然気にする必要がないように思われる。

リーダーの立場で何かを考えたり決めたりするのはむしろ当然であり、そこに「ちゃんとしたリーダーシップ」があるかどうかは逆によくわからない。むしろ、リードする立場にないとき(部下であったり、チームのその他大勢であったりするとき)こそここで言うところのリーダーシップは発揮しやすいのではないかと思われる。
何かを依頼されたとき、無為に言われた通りやるだけならそこにリーダーシップはない。もちろんない。他方、「頼まれたことを自分なりに咀嚼して問題意識をもちクリエイティブな解決方法を見出して120%のパフォーマンスを挙げる」とか「依頼内容はXXXであったが、問題を自分なりに再検討した結果YYYがより望ましいと考えられたので、情報を収集・整理した上でYYYした方がいいのではないかという逆提案を上司に行った」とか、こういった事例は立場は部下でもリーダーシップにカウントしちゃっていいのではないかというのが最近感じるところ。

最近あった体験に即して書くと、
・A君。プロジェクトのあらゆる過程について(彼の担当以外についても)ちゃんと目配せしてくれている
・B君。仕事XXXの担当者としてXXXはしっかりやる。でもそれ以外は無気力で、他のメンバーがしっかりやることに依拠してしまっている。
現時点における自分の感じるところでは、B君は仮に担当の仕事をしっかりやったとしてもリーダーシップがあると言えないと思う。担当だけしっかりやるというのはアメリカのオフィスでよくある風景とのことだが、それではスタッフだ。MBAを取って幹部候補としてやっていきたいなら、あるいは年俸十数万ドルもらってブイブイやりたいのであれば、いくらアメリカでもそういう態度じゃだめだと思う。

*ちなみに、日本で問題だと思うのは、自分が定義しているような意味でのリーダーシップを従業員に強く求めるくせ、それに対する対価を払っていない点にあると思われる。コンビニ店員や飲食店のバイトをやったことがあるが、「自分の頭で考えてイニシアチブを取る」という意味で言えば、下手したら今の勤務先よりもずっと強くリーダーシップ要求されていた。リーダーシップを要求するのは構わない。でも要求するなら時給1000円弱はありえないのではないか。こういった資質は立派なソフトスキルなんだから、要求するならアメリカで同様の仕事をしている人より多く給料をもらわないとおかしいのではないか。まあとはいえ、その時給で労働需給が成り立っているのだから自分が文句を言う筋合いもないのかもしれないが


○アントレプレナーシップ。起業家精神だが、これも起業という言葉に引きずられるとピントを外すのではないかと最近感じている。この言葉もより気楽に使ってしまってよいというか、広い意味で使ってしまってよいように思われる。「新しいことを始めようとする挑戦心」とか「これまでと違うことをすることにワクワクできる心的状態」とか「チャレンジや企画をきっちり形に落とし込むことができる実務能力」等々。

そういう意味では、ベンチャー企業の創業者がアントレプレナーシップをもっているのは、リーダーがリーダーシップを持っていても当たり前すぎて特別でもなんでもないのと同様であると思われる。むしろ、守旧的な官庁や大企業とかにいる人こそ、アントレプレナーシップを発揮することで価値を発揮できる程度が大きいのではないか。

大組織は既に何かしらうまく回っているプロセスが複数存在し、多くの従業員や管理職はそのプロセスを引き続き回す方向でものを考える傾向がどうしても出てくる。組織内部に慣性のようなものができ、その慣性を保つことでプロセスが順当に進み、利益なり何なりが出てくる。だけど、こういった慣性は得てしてこれまでとは違うことをやろうという試みの抵抗勢力となる。でも成長するためには新しい試みはほぼ確実に必要になってくる。

そんな状況で、アントレプレナーシップを「起業に関係ある概念→大企業のウチには関係ない」と考えてしまうと、新しいことに挑戦しようとする人を単に「既存のプロセスにひびを入れようとする不逞者」くらいにしか見ることができなくなってしまう。成長は不可欠であり、そのためには既存のプロセスと多少摩擦が起きてでも新しい何かに組織として挑戦し続ける必要があり、そういう挑戦してくれる人材尊重するような態度がないとどんな組織も成長がそこで止まってしまう。

既存のプロセスをこれまで通り回すだけの人は、仮にこれまで総合職とか一種とかいう肩書があったとしても、これからはアントレプレナー的でないという点において実質的には総合職的たりえない。既存ビジネスを動かす歯車としてもちゃんと仕事をこなしつつも、メインの重心は「新しいことにチャレンジして、しかも結果を出す」というところに置いて初めて総合職的たりうるのではないだろうか。

そういう意味において、誰にとってアントレプレナーシップが必要かって、それはベンチャーの創業者よりもむしろ「30歳前後で、基礎的な仕事のスキルは十分、ルーティンの仕事ならあまり頭を使わなくてもできちゃう。でも実は俺の仕事って、ルーティンタスクだけなら、一般職として隣に座っているケイコちゃんでもできてしまうかも。俺の総合職としての価値って一体なんだっけ...」みたいな自分の世代の大企業・官庁で総合職とか一種とか称している人々(というか自分)にこそ必要なんだと思う。あるいはマネージャー的肩書がついたらもっと必要になる。既存のプロセスをこれまで通り回せば自分の部署からそこそこの利益が出る。でも、成長のためには、自分の部下にルーティンタスクの消化だけではなく何か新しいことに対するチャレンジもやってもらわないとならない。そういうときにアントレプレナーシップに対する意識がないと、新しいことに挑戦しようとしてくれる部下のことをついうっかり「ルーティンタスクを軽視してチャラチャラ目新しいことばかり飛びつきやがって、いいから書類仕事やれよ」といった発想になってしまう。自分の部署にとっての「Cash Cow」であるルーティンタスクと多少の摩擦を起こしてでもチャレンジする部下を歓迎したり、その摩擦を嫌がるのではなく「摩擦の調整こそ俺の仕事」と喜び勇んで調整するようになれば、管理職も案外楽しいのではないか。アントレプレナー的管理職。悪くないと思うのだが。

米国に来る前は「起業なんてしない。なのでアントレプレナーシップなんて知ったことか」と思っていたが、その意味するところが思っていたよりもずっと広いと感じるに至った今では、「むしろ俺こそアントレプレナーシップを持たんと」とか考えるようになっている。

*ただ、アントレプレナーシップには、「リスクを敏感に察知する能力」とか「リスクを最小化する能力」も含まれているようなので、部下の挑戦を何でもかんでも許すというのはアントレ的上司ではなくただの「テキトー」ということになるのだとも思うのだが