Saturday, May 28, 2011

ケーススタディって

金・土まとめて。両日とも概ね勉強してた。現実逃避に旅行やらコンサートやら予約してみたり。

今日は戦略論の復習、というか授業をろくすっぽ聞いていなかったのでほぼ一から勉強してみた。授業が致命的なほどにつまらないことからややアレルギーを抱いていたこの科目であるが、ハンドアウトや教科書を読んで自分なりに考察してみると実に面白い。

でも、少なくともこの授業、ケーススタディが心底つまらなかった。教授の運営が下手なせい?それともケーススタディという手法自体に自分が馴染んでいないから?

あまりの戦略論のケースディスカッションがつまらなかったので、そもそもケースディスカッションにどのくらい意味があるのか少し考えてみた。この一年の乏しい経験から経験則を見出すのであれば、ケーススタディは

・ケース→その解説 という順番だと全然面白くない
・解説→その内容を使うと理解できるようなケース という順番だと割と面白い
・HBSケースは所詮人の体験談。人の体験から学ぶことができるほど自分の要領はよくない。
・既に習ったコンセプトを試す材料としては、HBSのケースは秀逸
・結局、学習にあたり参照するのは自己の体験である場合がほとんど
・ケースディスカッションは、ほとんどの場合においてあまり意味がなかった

といった感じ。理解の殆どは、予習や宿題をしているとき、あるいは教授のレクチャーを聞いているときに得られていて、ケースディスカッションからの学びは正直多くない。
習った内容をHBSのケースを使って応用するのはそれなりに有効な作業だと思う。たとえば、為替リスクヘッジの方法について学んだ日の宿題として、とある企業にどのように為替リスクヘッジをすればよいか助言するようなケースは勉強になる。習った内容をどう応用すればいいか、一人机でケースに向かい合っている時間は有意義だと思う。
しかし、それについてクラスで議論する時間はあまり意味がないと思う。教授の「模範解答」は大変参考になるが、クラスメートの意見に感心したことは殆どない。自分と同じ間違いをしていた学生の発表により自分も誤解を修正できた、という事例がたまにあるくらい。クラスメートの話を聞く時間って、ゴルフや書道のレッスンにおいて、先生が他の生徒に指導しているのを眺めている時間と同じくらい意義の薄い時間だと思う。上述した通り同じ間違いをしてくれる人がいたりするので意義がないとは言わないが、学びの効率性は高くないので、授業の半分以上をケースディスカッションにされたりするとどうしてもスカスカ感が出てしまう。戦略論も、90分のうち60分はケースディスカッションでレクチャーは30分あるかないかなので、復習する内容もほとんどなく楽だった。むしろ、ケースディスカッションの60分相当分、他の知識を伝授してくれた方が自分としてはよほどありがたいのだが。

自分がものを理解したプロセスを振り返ってみると、その多くの場合、HBSのケースの代わりに自分の経験とレクチャーの内容を照らし合わせていたように思う。「このコンセプトを知っていれば、あの取引先の分析に仕えたのになぁ」とか。毎日毎日、自分の過去の記憶と向き合っていたように思う。そういう意味において、たった5年間ではあるが実務経験を経た上でMBAに来れたのは非常に大きかった。HBSのケースは所詮人の経験談でありそこから学ぶことは自分には正直難しいのだが、レクチャーと自分の過去の仕事内容を重ね合わせる「個人的ケーススタディ」から得られる学びは非常に大きい。

これは逆に、自分が「自分が経験していないこと」について効率的に学べていないことを意味する。マーケティングやオペレーションのケースで、ケースの事例に関する経験がないことからまったく共感を抱けず、殆ど収穫感のないまま終わってしまったことが数回あった。もし自分が「他人の経験=HBSのケースから学ぶ能力・あるいは姿勢」のようなものをもう少し備えていれば、そういった授業をもう少し楽しむことができたのかもしれない。ということで、斜に構えて「ケーススタディなんて所詮」と言って終わりにするのではなく、たとえ批判的なスタンスを持ったままであってもケースからもっと積極的に学ぶ姿勢を打ち出していかないと勿体ない思いをしてしまうようにも思われる。ということで、今日はケーススタディに対するネガティブな意見で盛り上がったが、結局そうは言いつつもそんなケーススタディを受け入れないと自分が損するから頑張って受け入れないとなぁというところで結局落ち着いた。