水曜日。
3週連続で定休日を利用して山へハイキング。女子プロ(ハイキング)が毎年開催される有名な(ハイキング)コースへ。なんというか狭苦しい感じで、日本の山岳コースを思い出した。
運動の後はリトルトーキョーのオロチョンラーメンへ。辛さが調節できることが売りのこの店だが、ひよって中辛レベルのラーメンを頼んだらあまりに普通で感動も少なめ。店員のアメリカ人がいかにも原宿っぽい服装をしていて激しく違和感。原宿で見かけても違和感があるのに、LAで見たら単に滑稽なだけに思えた。。
・運動中に、携帯にメールが。読んでびっくり、とても残念なお知らせ。
2年生で行うフィールドスタディ、アメリカ人の同級生が陰でダブルブッキングしていたそうで。で、諸事情により向こうのチームに加入することを決意したとのことで「すまんね、でも問題ないよね?ではでは」といった、とても軽いノリだが重い内容。
あちゃー、これは大変。残念ながら問題ありまくり。新たに誰か一人招かないといけなくなったが、殆どのチームはできあがってしまっており、まだプラプラしている人など殆どいなそう。。
なんだかどうも、今学期はこんな感じで、「相手が軽いノリでやったことにより、当方が大ダメージ」といった展開が重なっている。厄年?あるいは自分のせいか?
・本件で、自分の留学中の「こうありたい」という目標の一つがかなり揺さぶられている。
このアメリカ人君、これまでのチームでのやり取りにかなーり消極的だった。その消極性は明らかだったのだが、「ここはアメリカだし、単にメール筆無精なだけかもしれないし、あまり確証もないままに懸念を表明するのもアレだし」とか思ってほったらかしにしていた。しかし、結果論としては、もし早い段階で彼の消極性に懸念表明していれば、彼のダブルブッキングを把握することができたように思われる。そしたら、早い段階でもう一人のチームメイトを確保できていた可能性が高く、今回のように「今更もう一人はシンドイですよ」という窮地に立たされることもなかったように思われる(我々は、5人そろったことでメンバー探しをまるっきりやめてしまっていた)。
自分は留学中、なかば意識的に「懸念を抱いても、その懸念が顕在化したり皆に共有されるまでは、表明するのを控えよう」と考え、実際懸念表明を複数回先延ばしあるいは我慢してきた(我慢が足りずつい言ってしまって周囲に寒い思いをさせたこともあるように思うけど、この際その辺はむにゃむにゃ)。しかし、どうもその決断が裏目に出て「あーあ、やっぱり」という溜息を何度もついてしまっている気がする。この間も、「この人がそんな馬鹿馬鹿しいことするはずないから、ちょっと気になるけどわざわざ注意喚起することもないか」と判断して何も注意喚起せずにいたら、マーフィーの法則ばりにその人が「そんな馬鹿馬鹿しいこと」をやって、その結果自分が大怪我をしたばかり。
過去の諸経験(たとえば、早い段階で懸念表明して「おまえ寒い」と言われた経験)から、留学中は「できるだけ懸念表明を我慢してみよう」と考えて一年間やってきた。懸念表明を控えることが一種のアメリカ的ポジティブネスに繋がるものであると思いながら。しかし、今日の一件で、その決断が正しかったのか否かかなり自信がなくなってきている。
とは言え、いくら今回のようなことがあっても、なかなか簡単に「やーめたやめた、明日からは気づいた瞬間懸念表明しちゃいます」と方向転換することにもかなりの心理的抵抗がある。早い段階での懸念表明に伴うデメリットは小さくはないからだ(相手が気付くチャンスを奪うことになる・冷や水効果etc)。
なんというか、本件(とここ数か月にあったいくつかの痛い出来事)で、世の中性善説だけじゃ駄目なんだなぁと非常に強く痛感した。性善説が通用する世界-たとえば自分の元職場やらここAnderson-にあっては、たとえば「懸念表明を急がない」といった自分の考えはかなりワークする。だけど、皆色々な利害を背負った大人だからか、性善説が通用しない局面が年を取るにつれ少しずつ増えてきている気がする。お子ちゃまなのであまり考えたことなかったけど、性善説が通用しない可能性に配慮を巡らせて、その場合の身の処し方についてもうちょっとクレバーに考えなきゃいかんのかもしれない。