Tuesday, May 3, 2011

Justice

パキスタン某地でJusticeがdoneされたことの感想。


・あそこでJusticeと言ってしまうのは、小浜の「異なる価値観の受容」という重要な特質を損ねてしまうのではないだろうか。我々はイスラム教徒と戦っていたわけではないといったその口でJusticeとか言われてしまうとちょっと引く。異なる価値観に対する寛容は、共和党との対比を明確に打ち出すための単なる選挙上の作戦なのか?


・人を殺すこともある人々にとっては正義。つくづく、絶対的な正義とか悪とか、絶対的な善とか、そういったものが存在しないのだな。すべては相対的(だと思う。この意見も絶対的ではない)。

マイクロファイナンスにより貧困を相当程度解決しても、まわりまわって先進国の国民などが割を食う(コモディティ価格の高騰等)。
金融にしたって、銀行は投融資によるリターンを得られて顧客は自己資金以上の資金を投資資金に充てられてWin-winに見えるが、その裏には「資金調達したライバル企業に設備投資競争で先を越されたライバル企業」といった割を食う層が必ず存在する。
災害復興も、被災地を復興するのと、被災地を放棄して別の場所に移住してもらうのと、どちらかが絶対善でどちらかが絶対悪などと言えるだろうか。

・でも世の中には、古くは官僚・政治家から新しいところでは起業家とか(Googleとか)、多くの人が「社会を変える」「世界を良くする」といったことを目的あるいはモチベーションの源泉として掲げて実際にものすごく頑張っているように見える。自分には絶対的な善は存在しないように思われるのだが、彼らはどのように考えて「社会貢献」とか「Change the world」をモチベーションとして頑張れているのか、気になる。

仮説1:単に自分の考えが浅いだけで、世の中には絶対的な善が存在する。彼らはその存在に気付いていて、自分が気づいていないだけ
→自分が知らない何らかの考え方によれば、被災地を元通りにすることが唯一の正解であり被災者に移住を促すのは絶対的に間違っている、のかもしれない

仮説2:物事には常に表裏があるにしても、作用反作用のように常にゼロサムとは限らない。仮に行動Aが行動Bより社会的厚生を増大させるのであればそれは善であるという考えに基づいて彼らは行動している
→被災地を元に戻すのも、被災者を福島市とか仙台市に移住させるのもメリデメがあることは承知しているが、各種メリデメ考慮の結果、被災地を元通りにすることが社会的厚生(と、多分彼らの利益)を最大化する、みたいな

仮説3:真に社会のため世界のためになるかはこの際問題ではなく、彼らが正義と考えるものが実現すればそれが彼らにとって成功である。
→被災地を元通りに戻すことに国富のかなりが使われてしかも従前の非効率が残ったとしても、特定の人々にとってはそれが正解なので、それが実現することが善であり「移住した方がコスト節約できるのでは」という意見は「悪い」意見でしかない

仮説4:社会貢献や世界を変えることをモチベーションにしているというのは自分の誤解あるいは彼らの偽装で、実は他のモチベーションが何か存在する
→社会貢献を掲げることがひとつのマーケティング手法で、基本的には利益最大化を目指しているとか

社会貢献や世界を変えるという目標を掲げなければ、あるいは普通の民間企業であれば、個別の人が幸せになれば良い・個別の集団だけが幸せになればそれでオッケーというスタンスで全く問題ないだろう。しかし、社会貢献を掲げてしまうと、その「全員がいまより幸せになることは難しい」という問題にどう向き合うのか考えないといけなくなる気がするのだがどうなのだろう。