木曜日。あー疲れた。
宿題をPPTで作っているのだが、サブマシンのVaioになぜかTrue Type Fontがインストールされず、サブマシンで作業をすると同級生が気の利いたフォントで作ったファイルがしょぼしょぼ明朝体になってしまう。。。
・今週のOrganizational Behavior。
火曜日のお題がGenderで木曜がRaceと、自分にとってはなじみの薄いテーマ。これまで考えたことが殆どなかった分野ゆえに、授業が実に面白かった。
どちらも基本的なコンセプトは似ていて、
- 多くの人が往々にして、女性差別やマイノリティ差別を明示的にはしていなくても、
- 無意識に女性やマイノリティに対するステレオタイプや偏見を持ってしまっていて、
- そういったステレオタイプにより無意識に偏った判断をしてしまう"無意識の差別"をすることがある
- なので、まずそういった"無意識の差別"を自覚した上で、それを可能な限り除去できるような仕組みを考案・実施するとよい
- 具体的には云々
と言う感じ。
授業中にあった事例としては、
- 素晴らしい経歴が書かれたレジュメ。同じ内容で、ひとつを女性名、ひとつを男性名にして被験者に感想を聞く。すると、多くの被験者は男性のレジュメを見てシンプルに「素晴らしい」という印象を抱く一方で女性のレジュメを見て「アグレッシブそう」といったネガティブな印象を抱く。これは人々が無意識にもっている女性に対する「おしとやか」等々のステレオタイプとレジュメの内容に乖離があるため。無意識に存在するステレオタイプが、被験者の判断力を歪めている
- まったく同じ経歴が書かれたレジュメ。片方を黒人っぽい名前、もう一方を白人っぽい名前にして、求人広告を出している多くの企業に出願してみる。すると、本来唯一の判断対象となるべき経歴が同じであるにもかかわらず、白人っぽい名前の偽レジュメが選考を通過する確率は黒人レジュメの通過率を50%ほど上回っている
など。
KKKみたいな意識的な差別と、この「無意識の差別」。いったいどちらの方が重い問題だろうか。
さて、翻って自分がどうだったか考えてみると、
自分はジェンダーとか人種差別について「Well-educatedでNon-biased」であると思い込んでいたが、実はそんなこと全然なくて、単に問題の所在に気が付いていなかっただけである気がしてきた。
単に「セクハラしなければいい」とか「分け隔てなく接すればよい」とかいう表層的なレベルでしか問題を理解できていなかった気がする。表層的なマナー部分だけ押さえて満足し、本質的な「無意識の差別を認識し、意識的にそれを軽減すべく努力する」という取組の必要性とかは全く考えていなかった気がする。特に人種問題など、当たらぬ神にたたりなしくらいにしか思っていなかった。おそらく自分のような「善良だと思い込んでいる人間」こそ上記のような無意識の差別をやらかしてしまうのではないかと思いぞっとした。
アメリカ人同級生の反応を観察してみたが、
皆思い思いの意見こそ言うが、それほど場の空気は重たくなく、みな程よい距離感で問題を受け止めて対処できているように見えた。この手のテーマは幼少の時から手を変え品を変え考えさせられている問題であり、バランス感覚のようなものができているのだろうか。自分は授業前の段階で「この手の問題は『笑えない問題』であり、皆口を閉ざしたり、真剣な顔をしたりするのではないか」という仮説をもっていたのだが、たぶんいい意味で裏切られたと言っていいのだろう。自分の隣には黒人の女の子が座っており、火曜日も木曜日も自分はちょっと気にしてしまっていたのだが、彼女はどちらの授業もきわめて自然体で聞いていて感心した(神経質に教授や同級生に反発したり、じっと苦い顔をして黙りこくったりすることを懸念していたので)。
授業を終えて思うに、
上で書いた自分の反省の繰り返しにもなるが、自分や多くの日本人はこうした問題に立ち入らないことで問題に対処できている気になってしまっているように思われる。日本にも宗教やら過去の身分制度の名残やら身体的特徴やらで出自やら、実に多くの差別が存在しているが、今の自分(と、多くの日本人)がやっている「立ち入らなければクールでノープロブレム」的スタンスだと、「無意識の差別」に対する自覚が欠けてしまう懸念がぬぐえないように思われる。
この問題はグローバル化に伴い考えざるを得ない問題となる可能性がある。
今後、少なくとも今若者とカテゴライズされている人の多くは、教育の程度の高低を問わず、何らかの形で日本の外の世界と関わって生きていく必要に迫られるものと思われる。そのような局面にあって無意識の差別により思いがけず怪我をするリスクがある。海外展開待ったなしの局面になり「無意識に差別を行う日本人」という悪いレッテルを形成してしまう前に、「差別問題の存在を自覚し、"無意識の差別"を含めた問題について認識した上で差別をしない」というより積極的な関わり方ができるようになると望ましいように思われる。自分が評論家であるならば「ついては学校教育の改善を」というのが結論になるのだが、いかんせん自分はただの学生に過ぎないので、「自分の娘にはそのように教育したい」という極めてミクロな決心をもってこの論考の結論としておきたい。
と、散々問題を膨らませておいて、しかも自分だけ反省しておけばいいのに日本人全員にダメ出しをして、最後に突然「自分だけ改善しよう」とまとめてみた。ややロジックがセコいな...