○iPod(iPadではなく)に、PCに入っている音楽を手当たり次第入れて車に接続して使っているのだが、今回の旅行では道中で懐かしの名盤、オザケンの『LIFE』を久々に聞いてみた。いまブログを書くにあたって調べてみたら、発表が1994年。自分が13歳、中学1年生のとき(!!!)。人生のほとんどが性欲と自己顕示欲で説明できた時代。。
○『LIFE』は、おそらく自分±10歳くらいの世代で知らない人はいないのではないかと思われる超名盤。自分はピアノから音楽を始めたことから歌詞には関心が薄くもっぱらメロディーとか和音とかリズムとか音それ自体に薀蓄をうだうだ言うのが好きなのだが、こと音の部分に関して言えば本譜はまったくもって古臭さを感じさせない。「時流に乗った王子様が溢れる才能を流行にアジャストしてさくっと作ったお手軽ヒット集」と勝手に思いこんでいたが、十数年の歳月というフィルターを経た上で改めて聞いてみると決してそんなことはないことがわかる。
さらに言えば、本譜ほどに生声(生声的な、声のかすれや裏返りなどをそのまま生かした声。ヘタウマの妙といった感じ)が曲にフィットしているアルバムはそうはないと思うし、これほどまでにハープ・ストリングス・ホーンサウンドの組み合わせがいやみに聞こえないアルバムもそうはないと思う(普通は楽曲中でハープをポロンポロンやったら相当違和感がある)。
○このアルバムについては、歌詞に興味がないといった矢先だが、中学生時代聞きまくっていたことから歌詞をいまだに結構覚えている。こうやって改めて聞いていると、歌詞に「永遠」とか「ずっと」という言葉が散見される。その後の彼が(本人がどう考えているかはさておき)永遠という言葉とは正反対にあっさりと表舞台から姿を消しミュージシャンとしてのキャリアも『LIFE』でピークを迎えてしまったことを踏まえると、その対比が興味深い。永遠を歌った当の本人が、身をもって永遠などありえないということを証明しているようにも思える。その一方で、『LIFE』が十数年のときを経た今でも強く支持されていること(Amazonのレビューを見てもわかるし、たしかSPA!か何かで特集されていたような)なんかは本当に優れた音楽は時代や流行を越えて永遠に支持を得ることができるということを示しているように思われる。個人的には、「永遠」という歌詞を聞くたびに彼の「その後」を想起してしまい「永遠ねぇ...」とアンニュイな感じを抱いてしまう。
本人がどう思っているかわからないので自分の勝手な思い込みで恐縮だが、本譜は彼にとって「できすぎ」だったのではないだろうか。その才能が諸要因によって発揮「され過ぎて」しまい、燃え上がった炎が制御不能となり、本人をも燃やし尽くしてしまったのではないか。甲子園でピークを迎えてしまったエースとか、10代前半で最盛期を迎えてしまった子役とか。石川遼に人が惹かれる理由の少なくとも1%は、「素直に活躍を望む」というよりは「早熟の天才が堕ちるというストーリーを見たい」という人のじめっとした心の裏返しではないかと思ってみたり。
こんなことを思うのは自分が中二病から脱していないからであろうが、いずれにせよ、自分は現在に至るまでオザケンのことをそのような「燃え尽きた元・天才」というストーリーで勝手ながら解釈しており、そしてそんなストーリーについ甘美なものを感じてしまっている。堕ちた天才、燃え尽き症候群、神秘的なもの・宗教的なもの(人によっては犯罪やドラッグやセックス)への「逃避」。才能に欠ける一般人としては是非ともその「堕ちる様」を見届けたいという卑猥な感情をつい抱いてしまうし、その一方では自分もできれば是非ともそのようなアップダウンを経験してみたかったなどとも思う。
○これを発表した時点でオザケンは26歳。中学生当時、このアルバムに衝撃を受けたあまり「俺もきっと、20代でこのくらいの最高傑作を出して、燃え尽きて、30になる前に死ぬ」といういかにも思春期的なことを夢想していたのだが、そんな甘酸っぱいというかイタい思い出がこのアルバムを聴くたび蘇ってきていたたまれない気分になってしまう。今になって冷静に立ち返れば、ポイントは燃え尽きることであり最後の「30で死ぬ」とか死ぬ必要性がないし。
そんな自分もあと半年足らずで死亡予定年齢の30となる。幸いなことに健康的な理由で「死んでしまう」ということはなさそうで、仮に行くにしても自ら行くしか手は残っていない模様。LAで学生しながら、月に数度のゴルフに情熱を注ぐオッサンって、当時思い描いていた自分と比べるとずいぶんとんでもない道草をしているものだ。