Friday, January 14, 2011

自分探し???

・自分は生まれてこの方
「自分はこの一生において、はたして何がしたいのだろうか?」
という問いに答を出せていない。

就職活動やMBA受験でこの問題について立ち止まって考える機会を多少得た。しかし、終わった後で振り返ると、これらは少なくとも自分にとっては「自分の過去現在とを踏まえつつ先方に受けそうな物語を作るゲーム」であり、そこで捻り出した物語と自分が真の意味でやりたいことはそれほどリンクしていない。
その時人事やアドミに説明したことなど、当時の書類を読み返さないと思い出せない。

これまでの人生での出来事の多くが、「したいことを考える意味なんてあまりない」「むしろ、やりたいことなど考えず、結果的に与えられた状況に適応することに専念する方が気楽だし現実的」というように自分の考え方を誘導してきている。行きたい会社で働けるのは一握りの人間だが、100%の人間が内定をくれた会社で働く。行きたい学校に行けるのも一握りだが、合格をくれた学校で学ぶ人は100%だ。勤務先では、深く考えずとも仕事内容まで他の誰かが決めてくれて、配属当時は全く知らなかったが実は超面白いデリバティブの勉強をさせてくれたり、行く気ゼロだったが終わってみれば素晴らしい場所だった広島で修行させてくれたり、英語もろくすっぽできなかったのにMBAに行かせてくれたり。

基本的にこの「待ちガイル」的考え方は変わっておらず、今もなお自分の基本コンセプトとなっている。
しかし、2つの意味で、「ちょっと考えを前に進めた方がいいかな」と思うようになってきている。



ひとつはキャリア面での発想。上記の「待っていれば万事OK」的な発想の「前提」がかなり揺らいでいるので、今後は待ちの姿勢では全然ダメだろう。
前提とは、学歴とか日本の経済システム。就職前後の頃は「東大出たんだから変なことにはならないだろう」と高をくくっていたし、MBAの社費選考に合格した頃も「東大卒の看板にMBAの看板でもつけておけば、9回にリベラを投入したようなもので、もう大丈夫、一丁上がりだろう」とそれはもう図に乗っていた。で、放っておけば給料も加齢に応じて自動的に増えてハイ一丁上がり、という妄想をしていた。
しかし、「高度経済成長も遠い昔、日本の人口はあとは減少方向に一直線」とか言いだすまでもなく、どう考えてもこれらの前提は崩れてしまってきている。おそらくこれからは、国内で東大卒の看板を大事に抱えていても全然ダメだろう。明治初期の旧武士とまったく同じ末路を辿るだけだ。泥船が沈む前に川を渡り切った諸先輩方に愚痴を言いつつ没落し、夜な夜な酒を片手に「こんなはずじゃ」と愚痴を言う、みたいな。
ということで、少なくとも「待っていてもあまりロクなことはないかも」という発想に切り替え、最低限「ババは引かないぞ」というスタンスで動く必要がありそうだ。ふんぞり返る武器としては東大もMBAも無力になってしまうと思うが、ジタバタする際にはちょっとくらい役に立ってくれると思うのでひとつ頑張りたい。



もうひとつはキャリアという枠組みを超えた発想で、より情緒的なもの。
すなわち、「キャリアについてやりたいことを考える必要はそんなにないかもしれない。しかし、個人としてどのように生きたいか、あるいは死にたいかということについては、ちゃんと考えなくちゃまずいんじゃないのか」という思いが最近やけに頭をよぎるようになってきた。
上にキャリアのことを長々と書いたが、キャリアと格好つけて書いてはいるが所詮は仕事、泥船と一緒に心中して家族を困らせることさえなければ基本的にはそんなに真剣に考える必要はないと思っている。しかし、キャリアという狭い範囲を超えた領域においては、コギトエルゴスムじゃないけど、どう有りたいかについてはちゃんと考えないと人間としてマズいんじゃないかと思いが少しずつ強くなってきている。年をとったせいなのか、MBAで何かに感化されたのか、そのあたりはよくわからないけど。

今日わざわざこんなヤヤコシいことを書いたのは、今日ふとGreat Gatzbyを思い出し、ある考えが頭をよぎったから。今まで、ギャッツビーの何がすごいかって、一人の女性をずっと愛し続けた情の深さとか、一財産築きあげた才覚とか、そういったあたりが彼のすごさなんだろうなと思っていた。しかし、彼がすごい本当の理由は、稼いだ金を使う確固とした目的をもっていたこと、換言すると「ひとりの人間として本当にやりたいことというものを完全に知っていたこと」なのではないかと今日ふと思ったのだ。既に人妻となった女性を再び自分のものにするという彼の「やりたいこと」は、正直どうかと思うが、適切か否かはこの際問題ではない。彼が「どんな仕事をしたいか」とかいった副次的なところで立ち止まることなく、ひとつの芯の通った「人として成し遂げたいこと」を持ち、それに向かって一直線に行動したという点が人々、少なくとも自分の心を打ったのではないかと思いを改めたのだ。彼ほどに、事業で財を成すことなど手段に過ぎないことを稼いでいる最中に意識できていた人間はそうはいないと思う。それゆえ、事業がグレーだろうとブラックだろうと、彼にとっては問題ではなかったのだ。

このレベルの、肩書きなしの裸一貫の自分が持ちうる人生の目的って一体どういったものになるのだろうか。妻子の幸せ?金銭的充足?知的充足?初恋のあの子を取り戻すとか??案外、世界平和とか??
正直なところ、現時点ではまったくイメージが出てこない。このままでは定年時に気が抜けて一気に老けること間違いなしで非常によろしくない。

この問題は頭の整理をしておかないと後々まずいんじゃないかという最近の思いが、今日ふと思い出したギャッツビー君によって弾みをつけられたので書いてみた。