Monday, January 17, 2011

衝撃

・ネットサーフィンでふとたどり着いた小椋佳のホームページに、その略歴が載っていて度肝を抜かれた:

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脱サラ歌手と言った程度のことは知っていたが、略歴を見て度肝を抜かれた。
ケロッグにてMBAを取得していたことも(自分がMBA学生なので)結構インパクトがあるが、とくに驚いたのは、彼が銀行を辞めたのが支店長を経験した後の50歳のときであったことだ。遅っ!!!支店長にまでなってから辞めるなんて!


自分が高校を出た頃には、就職などその後「何か」になるためのステップにすぎず、早晩自分は作家か音楽家かのいずれかになりたい、まだ間に合うとか図々しくも妄想していた。それゆえ、その当時は自分が経済学を学ぶ理由などまったく理解できておらず、無駄に哲学とかを好んで履修していた。

大学も中盤になると、だんだんその辺りが曖昧になってきて、気が付いたら普通に就職活動をしたのだが、その頃スガシカオがどこかの音楽誌のインタビューで「数年サラリーマンをやったあとミュージシャンに転身した」という身の上話をしていて、それが自分にとって一種の支えのようなものになっていた。要は現実逃避なのだが、
「自分の居場所はここではないどこかで、今ここにいるのはその『どこか』にいくための準備期間で、スガシカオという実例があるのだから自分もまだ間に合う」と思っていた。おそらく、見る人が見れば、自分の職場における浮つき方、身の入っていない状態は一目瞭然であったのではないだろうか。

しかし、結婚して海外留学することが決まって子供ができたあたりでふと、もはや自分の中にかつてのような「ここではないどこか」に行くための気力がほとんど存在していないことに気が付いた。「自分の居場所はここではない」という感覚は色濃く残っているが、いつの間にか肝心の「そこに行くぞ」という気力がすっかり消失してしまっていることに気が付いたのだ。

これは単純にネガティブな話でもなく、おそらく家族ができたことで多少なり成熟してきたことの裏返しとも解釈してよいものと思う。でもいずれにせよ、このことに気が付いたときから急に人生に対する茫洋とした閉塞感のようなものを感じるようになった。はたから見ればMBAに行くのだから前途は開けているのではないかという感じかもしれないが、自分の内面では逆に、自分が行きたかった「どこか」が自身の内面から喪失してしまった以上自分は最早どこにも行くことができないのではないかという焦りばかりが強まった。最近の自分の「やりたいこと」といった思索も、金融業界内でのちょっとした業態の変更とか、勤務先を変えるのか変えないのかとか、とても矮小化されている気がする。これが大人になるということなのだろうか。何より、「もうそろそろ年齢も年齢だし、そういう変化を受け入れていくことも大事だよね」とか思うようになっていた。

そこに来て小椋佳のプロフィールは効いた。自分の側頭部にガツンとパンチを食らった感覚だ。
30歳にもなっていないのに、自分は何を老け込んでいるのだ。50歳でもまだ間に合うのだ。銀行やMBAなど職歴の幅を広めつつ人生の幅を狭めるところだと決めつけていはいなかったか?小椋佳のおかげで既に道が整備されているのに、自分はLAくんだりまで来て何をウダウダやっているのだろうか?

表面的なところしか知ることができていないが、彼の生き様は「30歳なんて終わりでもなんでもない、行くか行かないかだ」といったような強烈なメッセージを自分にもたらした。完全に湿っていた自分の魂に、少しだけ再び火がついたような感覚で目もさえてしまっている(眠れないのは歯の手術の麻酔が切れて痛いからせいかもしれないが)。この感覚をどっちの方向に持っていくのか全然わからないのだが、いずれにせよはっとさせられたのでその経過を自分の頭の整理のために記してみた。