Sunday, October 30, 2011

アイデンティティ

■ 何かの弾みで、県人会なるものにお招き頂いてしまった。。実に大人の世界で正直おなか一杯だが、これも日本では絶対に体験できそうにないのでいい体験ができた。世の中には色々な人がいるのだなぁと改めて感嘆。

自分の親は転勤族だったので、これまで出身を聞かれるたびにもごもごしてしまっていた。また、自分としても、アイデンティティが弱いということが常に気がかりというかちょっとした劣等感のようなものを持っていた。ずっと一つの街に過ごしていた人がノータイムで「僕の出身はXXXです」というのがずっと羨ましかった。

しかし、今回参加した県人会は、自分が幼少時ほんの数年住んでいただけの県。思い入れはあるが、出席できるほどその県に根付いていたとは到底言い難い。それでも参加させてもらい、且つそこそこローカルトークも楽しめたことから、自分のアイデンティティについてちょっとした開眼のようなものがあった。特定の場所に長期間住んでいなかったことを劣等感に思わず、むしろそれぞれの住んでいた町についてアイデンティティを感じてしまってもいいのではないか。住んでいた町全てが自分の故郷であると考えてしまえば、これまでの劣等感が一転複数のアイデンティティを自由自在に使い分けることができる強みになるのではないかと。A県トークもB県トークもC県トークもそれなりにできてしまうのは、これはむしろ強みなんじゃないかと。

故郷についてどこか一つ選べと言われたら相変わらず困惑してしまうかもしれない。また、その町の市長になれるほど深いコネクションを構築できるほどの深さは獲得しえない。でも、そんなことはあまり気にせず、A県出身として振る舞いたければA県出身として、B県出身として振る舞いたければB県出身と好き勝手に自身のIdentificationをやってしまってもいいじゃないか。そんなことをふと思い、結構心が晴れる思い。もちろん、ここカリフォルニアも、変に「2年しかいなかったから故郷なんておこがましい」などと考える必要はないのだ。アメリカ人や在米日本人と今後意思疎通の機会があれば、ためらいなく自分の故郷は(ある意味)カリフォルニアである旨堂々と話してしまえばいいじゃないか。全ては結局自分なのだ。故郷だってその他いかなるアイデンティティだって、出身や身体的特性により「決められる」のではない。自分がどう考えるかによって「自ら決める」ものでもいいじゃないか。


これまで、転勤が多かった自分の境遇について少し劣等感を持っていた(幼少時も転勤してるし、自分が社会人になってからも転々としている)。しかし、今日突然成り行きでA県人としてのアイデンティティを意識させられたことで、アイデンティティについてもっと自由に考えていいじゃないかということを急に思うことができるようになった。単に自己正当化の言い訳が見つかっただけなのかもしれないが、それでもいいのだ。自分の中でふわふわしていたことが今日思いがけず急にすっきりしてしまった。