Sunday, September 19, 2010

ストライクゾーンの拡張、脱・間違い探し

米国に来て2ヶ月弱。米国では日本人と外国人の間の差異がとても大きいため、日本人同士の些細な違いが気にならなくなる。

日本にいるときは、周囲の人間の所作発言が自分のモノサシから見てちょっとでも変だったら、それがいちいち目に付いていた。時にあげつらったり時に陰口を言ったり。
日本のサラリーマンの飲み会での話題の相当な割合は「職場の同僚あるいは得意先が、自分(たち)といかにズレているか」なんじゃないだろうか。少なくとも自分は、「あいつの働き方のココが非効率的だ」とか「あいつのネクタイの色がダサい」とか「あいつは俺と同い年のくせにメールの署名に「 ●● 拝」ってどこのオッサンだよTPOわきまえろよ」とか思ったりしていたし、あまつさえ友人家族に陰口を叩いてさえいた。
あらゆるものに「外してはならないストライクゾーン」があると考え、ストライクゾーンから乖離している「ボールな人」を批判したり小馬鹿にしたり、意図的に外角高めくらいを狙っている人を「なかなかやるな」とか勝手に感心したり。

で、アメリカ。外国人の所作発言は、自分のストライクゾーンから見てあまりに離れている。あまりに離れているので、「ストライクゾーン」なんて小さい領域(30cm×30cmくらい?)でその乖離を語ることは全然無理。「In」と「Out」の境界線がないということはさすがのアメリカでもないと思う。また、具体例は浮かばないけど、特定のトピックでは日本より厳しいストライクゾーンのものもあるかもしれない。しかし、大抵の事柄で各人の相違の程度は相当大きい。適当だけどサッカーのゴール(7m×3mくらい?)くらいはある感じ。で、価値観の範疇が7m×3mだと、30cm×30cmでの差異など全く気にならなくなる。

そうなると、差異に鈍感になってくる。「スーツにリュック」でも「ショートパンツに短くない靴下」でも何でも。加えて、相対的に相違点が少ない日本人に対してはズレ探しよりも共通点探しをするようになる。

たとえば今UCLAのMBAの1年生には日本人が自分のほかに6人いる。彼らは、所作・趣味・考え方その他諸々、実に様々な点で自分とは違うと思う。日本で合格者の会に数度参加したが、基本的には意気投合したけれどその一方で各種相違点に違和感を感じ「彼らのズレが、だんだん鼻に付いてしまうことはないかな、大丈夫かな」と多少不安を覚えたものだ。

しかし、いざ米国にきてしまうと、そんなささやかな相違点など全く気にならなくなった。正確に言うなら、各人と自分とのズレ自体は引き続き認識している。しかし、許容範囲が既にサッカーゴール級に拡張してしまい数メートル単位でズレないと違和感を感じなくなっている今、野球のストライクゾーンに収まってしまうくらい小さな日本人同士のズレなど全く気にならなくなっている。

逆に最近では、自分の考え方がどれだけ他の日本人同級生と共有できているかの方がよっぽど気になる。たまに行き帰りが一緒になったときなどに、同級生が最近思っていることを述べたとき「ああ、わかるわかる。自分と考え方は似ている」と安堵したり。

あえて例えるなら、日本における自分は非常に狭い野球のストライクゾーン内での仲間はずれに邁進していた。今や、自分は、サッカーゴールほどに拡張した価値観レンジの中で、価値観が比較的同じようなところに位置している仲間を探すようなスタンスになっている。
どちらがいいのか?もちろん一概には言えない話だろう。自分が大好きな京都なんかは、ストライクゾーンの狭さがその強みになっているところさえあるように思われるし。しかし、今の自分は、少なくとも「これまでの自分とは違う、新しいものの見方をひとつ獲得した」ということそれ自体にささやかな満足感を抱いている。